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表紙

火の雫  55
 加賀谷真路?
 母がフルネームで真路を呼んだことに、絵津は驚いた。
 携帯を少し耳から遠ざけると、絵津は落ち着いた中にうんざりした気持ちをこめて、訊き返した。
「急にどうしたの?」
「質問に答えなさい!」
 有無を言わさず、将美は切り返してきた。 怒りがにじみ出ている口調だった。


 一方的に言われて、絵津の心にもじわじわと怒りが湧きあがってきた。
 少し待って呼吸を整えてから、絵津は冷たく言った。
「付き合ってるけど、それが何か?」
「なにクソ生意気な返事してんのよ!」
 将美は逆上した。
「あんた幾つ? 未成年でしょうが! 男見る目なんかカケラもないくせに!」
 自分はあるの? と言い返したかったが、さすがにそこまでは踏み切れなかった。
 代わりに、絵津はできるだけ穏やかに答えた。
「真路はいい先輩で、大事にしてくれるから」
「手に入れるまでは皆そうなのよ、男は」
 手に入れた後も、と、心の中で絵津は呟いた。 口には出さなかったが。
「別れなさい。 今すぐ。 電話して、はっきり言ってやるのよ」
「何を?」
 娘の冷ややかな声にとんちゃくなく、将美は一方的に言いつのった。
「あんたみたいなタラシとは付き合いませんって。 医者の息子でサーファーなんて、女ひっかけるために生きてるようなもんじゃないの」
「すごい偏見」
「絵津! あんた、反対されて意地になってるんじゃない?」
 将美は作戦を変えてきた。
「いいような話ばっかり聞かされてるんでしょう。 教えてあげるよ。 嶋祥子〔しま しょうこ〕っていう女の子がいて、加賀谷真路の子供堕ろしたんだって。 その病院のナースが学校友達だから、確かな情報よ」


 一瞬、背中が冷たく凍えた。
 だが、次の瞬間には思い出した。 真路の落ち着きはらった用心深さを。 彼がうっかりして、避妊を忘れるわけがない。
「真路が認めたの?」
 将美はプッと吹き出した。
「自分で認めるやつなんかいる?」
「じゃ、何が証拠?」
 娘が冷静なので、将美は苛立ってきた。
「嶋祥子が言ったのよ。 その病院紹介したのも加賀谷真路だったし」
「頼まれたたから紹介しただけでしょう? 父親が自分だったら、むしろ知ってる病院に行かせたりしないと思う」


 数秒間、将美は沈黙した。
 もう説得をあきらめたかと、絵津が思い始めたとき、母は不気味なほど静かな調子で宣言した。
「一週間以内に別れなさい。 さもないと、何が起こっても知らないよ」









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