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表紙

火の雫  54
 結局、四時ごろまで真路の家でまったりして、スキップとも遊んで、やや日が翳ってから車で送ってもらった。
「どっかで晩飯食ってく?」
「私はいいよ。 おなか空いてないし」
 近道を求めてパッとステアリングを切った後、真路がさりげなく尋ねた。
「退屈?」
 驚いて、絵津は坐りごこちのいい助手席から真路を見返した。
「ぜんぜん。 なんでそんなこと訊くの?」
「いや、疲れたみたいな顔してるから」
 恋に疲れた、とは言えるかもしれない。 だが、そう答える代わりに、絵津は努力して微笑んだ。
「人見知りなの。 大人の人と初めて口きくと、緊張するんだ」
「ああ、親父」
 真路もクスッと笑った。
「あっちも緊張ぎみだったな。 気遣わなくていいんだよ、家具だと思えば」
「そう言われても」
「うん、まあな」
 二人の間にただよっていた小さな冷ややかさが、この会話でどこかへ消えた。 その後は、お互いの学校や海の話で盛り上がって時間が早く過ぎ、絵津が気づくともうマンションの前に来ていた。


 車の中で軽くお別れのキスを交わし、絵津はドアから降りた。
 運転席から身を乗り出すようにして、真路が言った。
「夏が終わる前に、一度泳ぎに行こうな」
 その誘いで、絵津は思い出した。
「今年はまだ水着買ってない」
 真路の笑い声が響いた。
「だめじゃん、千葉っ子なのにー。 今度買ってやるよ」
「え? あの」
 最後まで言い切らないうちに、車は軽快に動き出し、すぐ姿が見えなくなってしまった。


 今度買ってやるって……恋人ってより、愛人に言ってるみたいだ。 それとも、奥さんに。
 自分で自分の考えにぎくっとなって、絵津は早足でマンションに飛び込んだ。
 部屋に帰って着替えを取り、バスルームに入った。 洗面所でドライヤーを使った後、自室に戻ると、ドアに近付いた辺りからもう、中で着メロが鳴り響いているのが小さく聞こえた。
 かけてきたのは、母だった。 引っ越してから一度も尋ねてこない人だ。 絵津は、一拍置いてから、ゆっくり携帯を取った。
 こっちが何も言わないうちに、機関銃のような声を浴びせられた。
「絵津! あんたまさか、加賀谷真路と付き合ってないよね!」









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