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表紙

火の雫  51
 真路の父親は、寂しい人なのかもしれなかった。
 間もなく、高級な握り寿司と吸い物が届き、三人は食事用のテーブルを囲んで食べ始めた。
 最初、加賀谷氏は黙々と、アナゴやマグロを口に運んでいた。 だが、絵津と話す合間に真路が話題を振ると、思ったより気さくに答えた。
「父さんは海より山が好きなんだ」
「山登り?」
 絵津が訊くと、真路はうなずいた。
「槍ヶ岳に何回か登ったんだって」
「たしか、三千メートル以上あるって聞いた」
「よく知ってるね」
 加賀谷氏が顔を上げて、まともに絵津のほうを見た。 眼の中に、温かい光が動いた。
「クラスメイトで、一家で登山するのが好きな人がいて」
「家族で登るのはいいだろうな。 真路は海にばかり行きたがるんだ。 ゴルフも嫌いだし」
「あんなのオヤジくせーよ」
「十代の有名ゴルファーだっているじゃないか」
「あれは仕事だろ? 俺はプロゴルファーになる気なくて、歯医者になるんだから」
 気軽な言い合いを耳にしながら、絵津はふと、大崎父子を思い浮かべた。 息子がひょいと父親を車に乗せて、仲よくゴルフ場へ出かける姿を。
 加賀谷氏も、真路とあんなふうに遊びに行きたいのかもしれなかった。
「千葉には高い山はないですよね。 ゴルフコースは一杯あるけど」
「確かに」
 加賀谷氏は笑った。
「今年の夏は、久しぶりに本場のアルプスへ行ってみようかと思ってたんだ。 でも春の終わりに風邪をこじらせちゃってね、体力に自信持てなくなった」
 悔しそうな口ぶりだった。 話をしてみて、絵津は真路の父親に好感を持った。 彼の眼差しは、松山とは違う。 穏やかで優しく、どこか哀愁がただよっていた。


 大きな容器にぎっしり入っていた寿司は、主に男二人の旺盛な食欲で、みるみる姿を消した。
 すっかり食べ終わると、真路がコーヒーを入れると言い出したので、絵津も手伝ってカップを出した。
 出来上がったコーヒーのカップ&ソーサーを手に持つと、加賀谷氏は立ち上がった。
「じゃ、もうあっち行くから」
 去り際に、彼は絵津を見て一言言い残した。
「ゆっくりしていきなさいよ」









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