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火の雫  50
 ゆっくり顔を動かして、真路がキスしてきた。
 絵津も、首を上げて応えた。 真路とキスするのは、いつも気持ちいい。 せきたてるようなところがなくて、どこかに余裕が感じられるからだろうか。
 唇が離れて、また重なった。 軽く羽根のように触れあっていたとき、足音がして、誰かが入ってきた。


 絵津は、あわてて座りなおした。 だが、真路は平気で彼女を抱えたまま、ゆったりと脚を組んで、父親に声をかけた。
「あ、紹介するね。 貝原絵津ちゃん。 今は松山って苗字に代わってるけど」
「そう」
 敷居の手前で立ち止まった加賀谷医師は、ぎこちなく一言だけ発した。 困っているのではないかと、絵津は思った。
 真路の手をそっと押しのけると、絵津は立ち上がり、小さく一礼した。
「お邪魔してます」
「ああ……いや!」
 ぼんやりしていたのが、急に目が醒めたようになって、加賀谷氏は渋い微笑を浮かべた。
「いらっしゃい。 人が来てるとわからなかった。 スキップが吠えないんで」
「なついてるんだ。 珍しいよね」
 脚を組み換えながら、真路が明るく言った。
「他の友達だと、ギャンギャンいいながら玄関へ飛んでくのに」
「もう正午過ぎだ。 メシ食ったか?」
「いや。 どうする?って彼女に訊こうとしてた」


 彼女、という言葉で、静かな部屋の温度が上がった気がした。
 加賀谷氏は、二人から視線を外し、すたすたと棚にある備え付けのファックス付き電話に歩み寄った。
「寿司、取るか?」
「父さんのおごり?」
「ああ」
「じゃ、頼む。 いい?」
 訊かれてすぐ、絵津はうなずいた。


 電話が通じて、注文する段になって、加賀谷氏はためらい、後ろを向いた。
「俺のだけ別にするか?」
「いいよ、一緒に食おうよ。 な?」
 おごってくれたんだもの、当然だ。 絵津はまた、素直にうなずいた。









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