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表紙

火の雫  49
 そういえば、この家には二度来たが、真路の母親という人に会ったことがない。
 絵津の母である将美は、ずっと水商売をしていたため、男社会の噂には詳しかった。 だが、同年代の主婦たちとはあまり親しくなく、保護者会に出ても一人ぽつんとしていた。 それで、少女時代の絵津も、町のゴシップはほとんど知らずに過ごした。
 ずばりと母親の居場所を訊くのはためらわれて、絵津は遠まわしに言った。
「スキップを買ったの、お母さん?」
 自分の名前を聞きつけたのか、床に置かれた編み籠に入って気持ちよく丸まっていた犬が首をもたげ、くりくりした目を向けた。
 真路はコップをテーブルに置き、あっさりと答えた。
「違うよ。 スキップは、親父が飼わせてくれたんだ。 母さんが急に死んで、家ん中が寂しいから」
 はっとして、絵津は言葉が続かなくなった。
 父が亡くなり、母が勤めに出るようになった時、家に帰るのが嫌だったのを思い出した。 誰もいない、がらんとした家。 特に冬は、薄暗くて電気がついてないと本当にわびしかった。
 絵津は座りなおして、真面目に言った。
「うちも、父さんが死んだ後は大変だった。 やっぱり寂しかったし」
「うん、わかる」
 真路の腕が肩に回った。 横に抱き寄せられて、絵津は素直にもたれかかり、目を閉じた。
「絵津って、何が好き?」
 低い声が尋ねた。
 身動きせずに、心地よく脱力したまま、絵津は少し考えた。
「なんだろ……れんげの花、すじ雲、白いサンダル、夏の夕立、ちっちゃい生き物」
「すごい静かなイメージだな。 風景画みたいな」
 そうかもしれない。 絵津は、祭や花火を遠くから見ているほうが好きだった。 人込みは嫌いだし、バーゲンセールは苦手。
 きっと、女の草食系なんだ。
「そういえば、絵津がキャーキャー言ってるの、見たことがないな」
 そもそも、私が何かしてるところを見たことがあるんだろうか、と、絵津は思った。
 苗字が変わって木更津に移ってから三年。 その間、真路は絵津に会いに来なかった。 連絡も取ろうとしなかった。 ただの一度も。
「私って、おもしろくないよ。 乗りがよくないっていうか」
「乗りか……」
 真路は考えこむ振りをしたが、目がいたずらっぽくきらめいていた。
「俺、調子に乗る奴嫌い。 だから、絵津みたいなのがいい」









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