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表紙

火の雫  45
 外出着を脱ぎ、風呂に入って夏用の薄いパジャマに着替えてから、絵津は寝室の窓辺に立って、大崎優〔おおさき すぐる〕に電話した。
 時間は、八時半だった。


 優は、すぐ電話に出た。
「大崎です。 エッちゃん?」
 それから、なれなれしすぎると思ったらしく、慌てて言い直した。
「絵津さん、と言うべきかな」
「いえ、エッちゃんで」
 不意に気詰まりが取れた。 絵津はリラックスした雰囲気で、礼を言うことができた。
「私の絵、ありがとうございました。 すごい綺麗で、自分じゃないみたい」
「でも君ってわかったんだ」
大崎は ほっとした口調になった。
「よかった! 似てねー、なんて言われたら立ち直れない」
「似てましたよ〜、いいとこだけ盛り上げて描いてくれてるから、見てると嬉しくなる。 額に入れて飾りますね」
「うわっ、壁にピン止めしてくれたらいいな、ぐらいに思ってただけなんだけど」
 本当に照れている声だった。
 気を引こうとして描いたのは間違いないだろうが、こういう贈り物は本当に嬉しかった。 わざわざ時間を割いて作った上に、マンションまで来てポストに入れてくれたのだ。 一人で家から放り出された絵津には、その絵が歓迎の印に思えて、心がじわっと温まった。


 八月末に親父がまたゴルフに行きたがってるから、車で連れてってやらなきゃ、と大崎は言った。
「その日、また寄るね。 今度はみんなで昼飯一緒にしよう」
「はい」
「じゃ、そんとき」
「おやすみなさい」
 一瞬、間が空いた。
 それから優が、びっくりするようなことを頼んできた。
「もう一度言って」
「え?」
「いや……」
 自分でも困ったらしく、声が低くなった。
「女の人に、おやすみなさい、なんて言われたの初めてで。 なんか、グッと来ちゃって」
 はあ?
 どう応じたらいいかわからず、絵津は勝手に赤くなった。
「えーっと……おやすみなさい」
「あ、こっちも言わなきゃ。 おやすみなさい」
 電話を切る前に、彼がブツブツ呟くのが聞こえた。
「あぁ、俺ってバカ……」


 半分笑顔になって、絵津は携帯をデスクに置いた。
 それから、心の中で囁いた。
――バカじゃないよ。 いいプレゼントありがとう――









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