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表紙

火の雫  35
 この人たち、自由に冷蔵庫から出してるし、もう用事はないはずだ。
 絵津は、じゃ、と小声で言って、そっと後ずさりを始めた。 すると青年は、にこっと笑って言った。
「ありがとう。 面倒かけて、ごめんね」
 それまで絵津に声をかけなかった父親のほうも、目が合うと顔をほころばせ、軽く手をあげた。


 ドアはしっかりした作りで、閉じるとリビングの音はほとんど聞こえなくなった。
 絵津は椅子にストンと腰を落とし、考えこみながらゆっくりと左右に回した。
 静さんの別れた夫と息子。 どちらもハンサムだけど、元の結婚相手のほうは、がっしりした運動選手のような顔立ちをしている。 子供、と言ってももう二十代だけど、彼のほうは静さんにそっくり。
 よく見ると、本当に似ていた。 すっきりした鼻筋、わずかに左右の大きさが違う切れ長な二重瞼、シャープな顎の線。
 一目で静さんの子だと気付かなかったのが不思議なぐらいだった。


 カーテンをかけ、クッションを置き、今度は小さなセントポーリアの鉢でも買ってきて棚に置こうかな、と考えていると、ノックの音がした。
 すぐ開けて、静の手とぶつかりそうになった。 もう一度ノックするつもりだったらしい。
「あ、エッちゃん、うちの元旦那と息子を入れてくれて、ありがと。
 遅くなったけど、これからお昼食べに行くの。 一緒に来ない?」
「ああ、さっき買い物に行って、食べてきちゃって」
「なんだー」
 残念そうに、静は語尾を引き伸ばした。 そして、背後に首を回して大声で告げた。
「優〔すぐる〕! エッちゃんもう食べたんだって」
 母の後ろからヒョイと顔を出して、大崎青年は気さくに言った。
「そう、じゃまた今度ね」




 三人が出ていった後、絵津はシャワーを浴び、少し昼寝をした。
 目覚めたとき、空は菫色に変わっていた。 賑やかな街路に面した部屋だが、防音が行き届いていて、サッシの内側は静まりかえっている。 エアコンの動作音だけが、低く響いていた。
 ベッドに起き上がって携帯を手に取ると、真路からメールが入っていた。
『金曜にそっちへ行く。 晩メシ一緒にしよう』






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