表紙目次文頭前頁次頁
表紙

火の雫  33
 母が、いい友達を選んで絵津を下宿させたことは、初日でわかった。
 だが、それが即いい環境につながらないことは、少し経つとわかってきた。


 絵津の借りた部屋には、カーテンや寝具など一通り揃っていた。 しかし、椅子に置くクッションはなかったので、翌日の昼前、買物に出た。
 支度用に、母からニ万円貰っていた。 だから懐は暖かい。 家具屋と小物店を三軒回って、仔犬がお坐りしている模様が表、裏を返すと可愛らしいお尻がシッポを振っているところ、というクッションを見つけ、ピンクとブルーの色変わりを一つずつ買った。
 目についたファーストフード店でセットを食べて、帰りがけに青と白のストライプのサンダルを衝動買いした。
 ちょっとうきうきした気分で、マンションに戻ってくると、エントランスを入ってすぐのところに置いてある応接セットに、男が二人座っているのが見えた。
 ひとりは、四十前後だった。 ブランド名はわからないが、見るからに上等そうなスーツを着ている。 その横で長い脚を伸ばしているのは、二十代前半ぐらいの青年だ。 二人とも、はっとするほどハンサムだった。 
 絵津が中へ入っていくと、青年のほうがスッと立ち上がった。 そして、驚いたことに大股で近付いてくるなり、話しかけた。
「松山さん?」


 母の再婚後に変えた苗字で呼ばれ、絵津はたじろいだ。 思わず用心深くなり、視線が尖った。
「そうですけど」
「あ、よかった」
 とたんに、青年は顔をほころばせた。 黒というより茶色に近い眼が細くなって、口角がきれいに上がり、わずかに白い歯が覗いた。
「静さんの部屋に引っ越してきた人だよね。 親父がキー忘れちゃって、この時間にピンポンするとまだ寝てるから悪いし、引き返すのも面倒だから、ニ時間ぐらいどこか回ってくるか、なんて相談してたんだ」


 ピンポン? 


 知らない相手にいきなりなれなれしく話しかけられて、絵津はたじたじとなった。 人見知りの癖は、まだ完全には直っていない。 気持ちが落ち着かなくて、言葉の意味を間違えてしまった。
「あの、ここで卓球……?」
 青年は、口を開けてから、また閉じた。 一瞬笑顔が消えたが、すぐ倍になって戻ってきた。
 噴き出しそうになりながら、彼は言った。
「チャイム鳴らそうかってこと」






表紙 目次前頁次頁
背景:ぐらん・ふくや・かふぇ
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送