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表紙

火の雫  32
 静が象牙色のシルクのガウンを着て寝室から出てきたのは、一時過ぎだった。
 ちょうど部屋の整理が終わったところで、絵津は掃除機を片づけ、さっとシャワーを浴びた後、コップに水道水を入れて、口をつけようとしていた。
 広々としたDKに姿を見せたとたん、その様子を目に入れて、静はスリッパのかすかに擦れる音をさせながら急いで近付いてきた。
「そこの水はおいしくない。 冷蔵庫に高原の水ボトルがあるから、そっち飲んで」
 そうだ、ここはマンションだった、と、改めて絵津は気がついた。
「あ、はい」
「もうお昼食べた?」
いえ、今引越し荷物を出し終わったとこなんで」
「二人で何か食べに行こうか」
 両腕をぐーんと突き上げて伸びをすると、静は邪気のない笑顔を浮かべて、絵津にうなずきかけた。 絵津も、つられて微笑み返した。 真路と密着していたひとときの秘密めいた楽しさが、心を大きくふくらませていた。


 静は、麻のキャスケット帽にセット前の髪を詰め込み、きなりのジーンズの上にラクダを刺繍したスモックという涼しげな服装で、絵津を連れてマンションを出た。
 二人が徒歩で入りこんだのは、大通りから一歩脇に入った裏道の、小さな定食屋だった。
「ここはね、隣りの飲み屋とつながってるの。 昼はこっちがメインで、夜はあっち。 酒の肴がめっちゃ旨い店だから、料理もおいしくてね」
 いわゆる穴場という店なのだろう。 店主は紺色の鉢巻をしていた。 ごく普通の中年男だが、笑うと意外に愛嬌があった。
 静は絵津を、妹分の子でしばらく預かるんだと店主に紹介した。
「昼はここに寄せてもらうかもしれないから、一人で来てもよろしくね」
「お任せください」
 そう言うと、店主は鮭フライ定食をおとなしく食べている絵津に視線を移し、さっぱりした声で続けた。
「お勘定はツケにしとくから、気軽に来てね」
 きっぷのいい話し方が、絵津には快かった。 それで、淡く微笑んで頭を下げた。







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