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表紙

火の雫  27
 その直後に電車が入ってきたため、絵津は真路に声をかけることはできなかった。 だが、車両に乗り込むとすぐ、ドアのところに行ってガラス越しに合図した。 真路も大っぴらな笑顔で、リードを持っていないほうの手を振り返してきた。
 すべてが、あっという間だった。 電車は間もなく出発し、線路沿いの道を引き返す真路とスキップを置き去りにしていった。


 小さく息をついて振り返ると、母の将美はさっさと座席に坐り、丸く広がる折り畳みの団扇〔うちわ〕を出して扇いでいた。 横顔が固い。 絵津はちょっとためらってから、半人分離れて横に腰かけた。 間にはバッグを置いた。
 絵津が席に落ち着くと、将美は前を向いたまま話し出した。
「あんたが下宿させてもらうところだけど、静はたまに店の子とか親戚を泊めるから、ニつ余分に部屋があるんだって。 で、玄関に近い七畳ぐらいの洋間を貸してもらうことになったの」
「荷物どれぐらい持っていける?」
 絵津が尋ねると、将美は複雑な表情になった。
「作り付けのクローゼットとベッドがあるみたいだから、家具は要らないんじゃない?」
「じゃ、PCとボックスだけにする」
 将美はうなずき、なんとなく話が途切れた。


 木更津駅前のレストランで昼食を済ませた後、母と子はバスで家に帰り、すぐ引越し荷物をまとめた。
 単身者用の引越しパックに頼んで、翌日の午前中に届けてもらうことにした。 そして絵津は、一息入れる暇もなく、身の回り品を三つのバッグに詰め込み、母の運転でM通りのマンションに急いだ。


 細川静という女性は、四十台前半で、背が高く、神秘的な印象があった。 これから美容院へ行くとかで、顔はすっぴん、頭にグリーンのスカーフを巻いていたが、それでも美しく見えた。
 絵津は一目で静に好意を感じた。 静も、若いわりにはしっとりした雰囲気の絵津に好感を持ったらしく、紹介されるとすぐ、気さくに話しかけてきた。
「エッちゃんね、よろしく。 将美とはけっこう長い付き合いなんだけど、エッちゃんと会うのは初めてよね」
「ヘアサロンとか店で立ち話とかが多いからね」
 将美が言い訳のように呟き、中身が詰め込まれてフットボールのようになっている大型ショルダーバッグを、玄関脇に下ろした。







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