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表紙

火の雫  26
「絵津さ、今どこに住んでんの?」
「ああ……木更津」
「なんだ!」
 真路の声が明るさを取り戻した。
「木更津かー。 すぐ行けるじゃん。 住所教えて」
 それが、まだわからない。 絵津は当惑した。
「ええと、もうじき引っ越すの」
 ちょっと間が空いて、それから溜め息が聞こえた。
「まじかよ。 それとも、単に教えたくない?」
「違くて、本当に下宿することになったの。 親と喧嘩して」
「おや」
 そう言ってから、真路は噴き出した。
「しゃれみたいに聞こえた? まあいいけど、そっちの住所は?」
「引っ越してから電話する。 たぶん、明後日かそのぐらい」
「必ずだよ。 いいか絶対だよ」
「うん」
 真路が熱心なので、絵津まで少し楽しくなってきた。 誰かに求められるのはいいものだ。 特に相手が、ずっと気になっていた初恋の人なら。
「で、もうじき帰っちゃうの?」
「そう。 十一時二十分に」
「電車?」
「うん」
「わかった」
 何がわかったのか知らないが、真路は一人で納得すると、もう一度念を押した。
「引っ越したら電話な?」
「うん。 じゃ」
 電話を切るのが惜しい気がした。 絵津は携帯をそっと撫で、相手が切った音が小さく聞こえた後、羽根のようにごく軽く頬に当てた。


 T駅には、十一時十三分に着いた。 ホーム一つのこじんまりした駅だが、特急が停まるし、臨時列車も停車する。 夏休み中の今は、サマーハットにクロプトパンツの若い娘や、短パンから毛脛を出したサンダル履きの男、ビニールバッグを持って追いかけっこをしている数人の子供たちと疲れた顔の親たち、といった、いかにもリゾートらしい客が散在していた。
 喚声を上げている子供の群れの向こうに、母が見えた。 いつもなら笑って合図するのだが、今日は二人とも表情が固く、笑みは出なかった。
 急がずに、絵津は将美のほうへ歩き出した。 横に並んでも、話し出すきっかけが掴めず、黙ったまま電車を待った。
 手もちぶさたに周囲を見回していたとき、絵津はふと左手に動くものを捕らえ、目が自然とそっちへ行った。
 駅と並んで通っている道を、真路が急ぎ足で歩いてくるところだった。 手に紺色のリードを掴んでいて、その先にコーヒー色の塊があった。
 絵津は反射的に体を伸ばして、よく見ようとした。
 スキップだ!
 とたんに顔がほころび、絵津は道の一人と一匹に夢中で手を振った。








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