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表紙

火の雫  25
 その日は、那古船形まで行って、木実の義父の友達が所有しているクルーザーに乗せてもらう約束だった。 だが、将美が一方的に予定を繰り上げて帰ると決めたため、絵津は楽しみにしていたクルーザー周航を諦めなければならなかった。


 十時半になると、木実は残念そうにトートをニつ下げて一階へ降りていった。 まだ母との約束の時間には少々早いが、家の戸締まりをしなくてはならないから、絵津もバッグを取って玄関に行った。
 車庫から車を出して来た義父の野村耕三〔のむら こうぞう〕は、いつも明るいのに、珍しくムッとした顔をしていた。 そして、バッグを仔猫のように抱えた絵津と目が合うと、短く頷いて言った。
「負けるな」
 よく日焼けした顔に、切れ長な眼がきらきらしている。 奈々歌と木実に事情を聞いて、松山にやりきれない思いを抱いているのが、よくわかった。
 胸がほんのり温かくなった。 絵津はちょっと微笑んで、頷き返した。


 耕三は、駅まで車で送ると言ったが、絵津は歩いていくことにした。 途中で少し買いたいものがあるし、送ってもらうと早く着きすぎるからだ。
 木実は不安そうに、出発する寸前まで後部ドアを開けたままにして、絵津と話していた。
「引越し済んだら電話してね」
「うん、必ずする」
「受験とかで親戚の家に預けられること、よくあるから、あんまり気にしないで」
「そうだよね。 環境が変わって、面白いかも」
「じゃ、暑いときに引越し大変だけど、頑張って」
「うん、頑張る」
「手伝いに行こうか?」
「ううん! 六年前に引越しして、慣れてるから。 でも、言ってくれてありがと」
「じゃ、ね」
 手のひらと手のひらを合わせて、二人は別れの挨拶をした。


 ゆっくりと街を歩きながら、絵津は携帯を出して真路にかけた。 真路は、すぐに出た。
「絵津?」
「そう」
 どうしても声が低くなってしまう。 だが、真路は気にしないようで、弾む口調になった。
「午後いちにかけようと思ってたんだ。 今日は予定空いたから、絵津も時間あったら来ない?」
 絵津は切なくなった。 どうしてこう噛みあわないんだろう。 いっそう声に張りがなくなった。
「それが、急に帰ることになっちゃって」
「えー〜〜〜」
 真路が派手に声を伸ばすのが、耳に痛かった。










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