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表紙

火の雫  21
 絵津の口から、低くヒュッという音が洩れた。
 驚きだった。 いくら狭い町とはいえ、時間にしたらほんの一秒足らずのキスを、たまたま松山が目撃したなんて。
 松山は、絵津から目を外さずに、右肩をそびやかして、二歩進んだ。
「あいつは誰だ。 観光客か?」
 ちがう、と言おうとして、絵津は言葉を呑んだ。 まさかとは思うが、もし松山が加賀谷の家に怒鳴りこんだりしたら、もろ恥ずかしい。
 無言でためらっている絵津を見て、松山は本気で怒り出した。
「なに隠してるんだ! タッパがあってちょっと見かけがいいからって、簡単に仲よくなるなよ! え? どうせ相手は一夏の恋だぞ。 遊ばれて終わりなんだぞ!」
「そんな人じゃない」
 一方的な決め付けに、我慢できなくなった。 絵津は背筋を伸ばし、できるだけはっきりと言い返した。 思ったよりしっかりした声が出た。
 だが、絵津が冷静になるのと反比例するように、松山の顔は赤黒くなっていった。
「へえ、じゃ証明してみろや」
「身元? 学校の先輩。 家へ行って、お父さんに会ったこともある」
 ガラス越しだけど、と、絵津は心の中で付け加えた。


 まさか、まじめに説明したことで、松山が逆上するとは、予想の外だった。
 松山は、鼻をすぼめて強く息を吸い込んだ。
 それから、いきなりダッシュして座卓の横を駆け抜けると、淡い藤色のタンクトップを着た絵津の両肩を鷲掴みにするなり、引っ張って畳に投げ倒した。


 これが実の父なら、絵津はびっくりして身動きできなくなっていたかもしれない。
 だが、相手は急ごしらえの義父で、おまけに結構色気づいた松山だ。 驚くより先に、体が反応した。
 短パンを穿いていたから、動きが楽だった。 続いて体の上にダイブしてきた男を転がってよけると 絵津は稲妻のように立ち上がった。
、床の間の横に置いてあった孫の手を、絵津はすばやく握り直して構えた。
「来るな!」
 キュッと細めた絵津の鋭い眼の輝きに、松山の視線が定まらなくなった。
 ふてくされた表情で畳に座り、両腕を下に垂らすと、松山は呻いた。
「ちょっと……しつけだよ、しつけ。 冷静になろうよ」
 絵津の頬が、憤りでかすかに青ざめた。




 どこにいても、シャワーを浴びる前にはドアに鍵をかけた。 着替えを覗かれないように、細心の注意を払った。 盗聴器や盗撮カメラの探知機を、友達に借りてきたこともある。


 しつけだって? あんただけには、言われたくない!


 形だけは整えていた再婚家庭が、古モップのようにぐしゃぐしゃになる寸前だった。







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