表紙
春風とバイオリン

 69


 その素直で感じのいい態度を見て、マキ子の心もふんわりと温まった。 まるで時期外れの春風に包まれたように。

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 三週間後、ラトヴィアでの正月公演を終え、暁斗がバイオリンケースとバッグ二つを持って戻ってきた。
 マネージャーの佐伯〔さえき〕に伴われて自宅へ帰りついた暁斗は、中庭で縄跳びトレーニングをしていた梓から大歓迎を受けた。
「お帰り、お帰り! 佐伯さんもお帰りなさ〜い!」
 飛びついてきた娘とハグし合うと、暁斗は佐伯が分け持っていた鞄を受け取った。
「ありがとう。 明日の朝十時に電話するよ」
「こちらからかけますよ。 それまでゆっくり寝ててください。 じゃ」
 父と娘に公平に笑顔を送って、佐伯は車に引き返した。
 梓と肩を組んで玄関に向かいながら、暁斗は尋ねた。
「マキ子は?」
「買い物に行った。 晩御飯、お父さんの好きな牡蠣〔かき〕の土手鍋にするんだって張り切ってた」
 そう答えて、梓は腕にはめたゴツいデジタルウォッチを覗きこんだ。
「珍しい。 予定より三十分も早く着いたね」
「ああ」
 なんとなく物足りない気持ちで暁斗は門を振り返った。 とたんに梓が体をぶつけてきた。
「大丈夫。 すぐ帰ってくるって」
「わかってるよ。 空見てたんだ。 夕焼け、きれいだな」
 照れ屋さん、この〜〜、と言おうとして、何気なく見上げた空は、本当にきれいだった。 夕陽は建物の陰に姿を潜め、雲の下辺に金色の筋を残して、静かに消えようとしていた。
 梓は額のバンダナを外して、父の肩に頭をもたれさせ、藍と橙が溶け合う壮大なキャンバスのような空を眺めた。
「厳かな気持ちになるね」
「そうだな」
 指に荷物の重みが食い込んできたが、娘と久しぶりに寄り添っているのが楽しくて、暁斗は動かないでいた。

 間もなく、前の通りを小柄な姿がいそいそと歩いてきた。 ロングカーディガンにマフラーを巻き、エコバッグを下げたその姿は、玄関前に並んだ父子を見たとたん、毬のように弾んで走り出した。
「お帰りなさい! まあ、早く帰れたのね!」
 梓は笑いながら、体を起こして父を自由にした。 そして、父が遠慮なく母を腕に迎え入れて抱きしめるのを見守った。
「ただいま。 バルト三国は面白かったよ。 音楽祭も盛り上がったし」
「成功おめでとうございます」
 威儀を正して、マキ子がきちんと言った。 暁斗も背筋をピンと立てて、しかつめらしく返した。
「恐れ入ります」
 それから、玄関に上半身を入れて荷物を置いた後、両腕を伸ばしてマキ子と梓の肩を抱き、暁斗は家族と一かたまりになってリビングルームへ向かった。
 玄関のドアが自動でゆっくりと閉じた。


 街灯に光が点り、あちこちの家に通勤帰りの車が戻る頃、ようやく卓斗が表通りから住宅街に入ってきた。
 かじかんだ手で、表の門扉を開こうとしていると、中から梓が飛び出てきて、手を貸した。
「早く早く〜! 今夜はお鍋だよ。 お父さんご機嫌。 面白いお土産買ってきちゃってね。 『七日間の指輪』っていうんだけど、七つ飾りがついててね、結婚式の一週間前から毎日一個ずつ外していくんだって」
「それを梓にか?」
「卓ちゃんにもって」
「まだ結婚は……」
「早いよね〜。 お父さん自分でもそう言ってるの。 だけど、その時のために覚悟を決めてるんだって」
「覚悟か」
 くすっと笑って、卓斗は掌をこすり合わせた。 梓がその手を引っ張って、両手で包んだ。
「冷たい! 風邪引くよ」
「うん、ちょっと手袋忘れちゃって」
 梓は、すっきりした眉を心配げに寄せた。
「卓ちゃん忘れっぽい。 ほんとに強くなるまでは用心、用心!」
「わかった」
 自分の病気がどんなに家族を不安にさせたか知っている卓斗は、なかなか素直だった。
 手を握りあったまま、二人は家の中に入った。 少し経って、賑やかな談笑の声がかすかに響いてきた。


 躾のいい子供たちは、食事の後片付けを手伝ってきれいにした後、自分たちの部屋に上がっていった。
 暁斗と並んでソファーにくつろいだマキ子は、グノーのアヴェ・マリアの静かな調べに身をゆだねていた。
 今夜はみんなが家にいる。 家族が皆元気で、仲良しで、こうやって一緒にいられるのは、なんて幸せなことなんだろう。
 暁斗が体を動かし、小声で言った。
「明後日、母さんのところへ行ってくる」
 現実に戻って、マキ子は急いで目を開けた。
「私も伺うわ。 梓もきっと行きたがるでしょう。 卓斗は確か、仕事があると思ったけれど」
「急に言い出して悪いね」
 暁斗はほっとした様子で、ソファーに深くもたれた。
 暁斗の母克子は、保険の外交員を辞め、友達と保育所を経営している。 子供好きな梓は、ときどき手伝いに出かけていた。
 克子はマキ子に優しかった。 だが、どこかに遠慮があるようで、梓に対するほど打ち解けてはくれない。 だから、暁斗の実家を訪ねると、マキ子は肩が凝った。
 でも、義母だって家族だ。 大好きな暁斗を育てた人で、しっかりしているし人柄もいい。 会いに行くのは、決して嫌ではなかった。
 気がつくと、横で暁斗がすうすう寝息を立てていた。 微笑みながらマキ子がキルトをかけようとすると、不意に手首を引かれて膝に倒れこんでしまった。
「眠い」
「そうね」
「二階まで抱いて運んでいくか。 『風と共に去りぬ』みたいに」
 マキ子は低い声を立てて笑った。
「うちの寝室は、一階」
「まあ、そうだけどさ」
「でも、運んでくれる?」
「いいよ」
 マキ子は四十キロない。 重いものを持たせてはいけない芸術家ではあるが、これぐらいならいいんじゃないかと思った。
 暁斗はゆっくり立ち上って、妻を抱きあげた。
「軽い。 羽根のように軽い」
「誰と比べているの?」
 暁斗は噴いた。
「奥さん! 俺が外国人のオペラ歌手かなんかと浮気してると、本気で思ってるの?」
「わからないわよ。 最近は歌手の人たちも細くなって綺麗で」
「よしてください、マダム、ご冗談は」
 真面目に言うと、暁斗は颯爽と歩き出し、後ろ足でリビングのドアを蹴って、カチャリと閉めた。



〔おわり〕





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