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「おばさん、何見てんの?」
ちょっとドスの効いた低い声が飛んできた。
マキ子は、目立たないように唾を飲み込んで息を整え、できるだけ普通の調子で呼びかけた。
「こんにちは、田中といいます。 ご両親を存じ上げていて、あなたも見掛けたことがあって」
宰の表情が変わった。 目が黒ずんで、思い当たった様子になった。
「田中ってよくある名前だけど、もしかしてバイオリニストの田中暁斗の奥さん?」
マキ子はほっとした。 自己紹介の必要はなさそうだ。
「ええ」
とたんに、宰は体を起こして、車の横に来た。 そして、照れくさそうにニッと笑った。
「あんただったのか、俺をあの家から逃がしてくれたのは」
驚いて、マキ子は目をぱちぱちさせた。 宰は、運転席のドアに軽く手をかけて説明した。
「俺さ、最初から、あんな家出たくてしょうがなかったんだ。 でも親父が許してくれなかった。 それで、成人したらとっとと逃げ出してどっかに住み込もうと思ってたんだ」
きわどいタイミングだったらしい。 レストランでやいたお節介がいい結果を生んだことを、マキ子は知ってほっとした。
だが、それにしてもさっきの女性は…… マキ子が思い切って尋ねようとしたまさにそのとき、宰のほうから口を切った。
「さっき金巻き上げてったの、見た? だから変な顔してたんだろ? チクッても別にいいよ」
それから、車に口を近づけて言った。
「俺のおかんなの、一応」
ああ、そういうことか――マキ子の口元がほころんだ。 知らず知らずに優しい表情になっていたらしく、宰の顔からも緊張の残りが消えて、明るい雰囲気になった。
そのとき、フロントグラスにぽつんと水滴が当たって、斜めに筋を引いた。 にわか雨だ。 マキ子は車のドアを開けて、宰に呼びかけた。
「雨が降ってきたわ。 どこかに用事があるなら送りましょう」
宰はためらわずに、助手席にすっと乗り込んだ。
その午後以来の付き合いだった。 車の中で話しているうち、二人はすっかり意気投合し、やがて宰が卓斗の病室へ見舞いに来るほどになった。
ほんとはやんちゃで親分肌の宰は、おとなしい卓斗のいい刺激となった。 卓斗が病室のつれづれに書き溜めた詩を、最初に認めたのも、宰だった。
「なんかいい。 こう、ピタッと来る感じ。 使ってる言葉が、マキ子さんと一緒で格調高すぎだけど、でも中身は『今』だよな。 今そのもの。 『さくら』だってあの古風な歌詞で売れたんだから、これもイケるんじゃないの?」
彼の言葉は正しかった。
音楽家ではないけれど、マキ子のスタッフは自然に宰の面倒も見るようになった。 家族ぐるみの付き合いは、もう六、七年続いている。 マキ子にとって、宰は弟か息子のようなものだった。
思い出から我に返って、マキ子は風でなびくかつらの毛をそっと撫でつけた。
宰に伴われて本社のビルを抜けると、オープンカフェが見えてきた。 マキ子は、二人を見て慌てて立ち上がった若い女性を、さりげなく観察した。
すらっと背が高い。 そして美しい。 しかし、動作の端々に翳りがあり、寂しげな雰囲気が漂っていた。
結婚したての花嫁とはとても思えなかった。 まるで日陰でうなだれて咲く野百合だ。 苦労と哀しみの多かった過去が、細い肩にずっしりとのしかかっていた。
かわいそうに…… ――マキ子の胸がずきりと痛んだ。 そして思わず、横を歩く宰にだけ聞こえるように小声で囁いた。
「辛い人生だったのね。 影が薄くて、初めて会ったときのあなたにそっくり」
「だから話が合うんですよ」
苦笑して、宰は囁き返した。 世田谷の田中邸へ親しく出入りし始めて以来、宰はマキ子に敬意を持って、きちんとした言葉遣いをするようになっていた。
大会社の秘書がこういう場合どんな話し方をするのかわからなかったため、マキ子は必要以上に丁寧な言葉遣いになった。 しかも、相手が無口だからこっちは口数が増す。 宰を公私共にバックアップしている『宰応援団』のメンバーを説明するだけで汗をかいてしまった。
視線を白いテーブルに据えたまま、宰の新妻である由麻はマキ子の話を聞いた。 反応が乏しいので、長い説明にうんざりしているのかとマキ子が不安になってきた頃、由麻が不意に目を上げた。
大きくて、夢見るような瞳だった。 吸い込まれるような奥深いその瞳は、思いがけない温かさをたたえて、マキ子を見返した。
「急にいろんなことが起きて、なかなかついていけないんです。 でも、田中さんこんなに親切な方だったんですね。 知らないで、いろいろ失礼なことして、すみません。 カードや携帯の使い方の説明、よくわかりました」
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