表紙
春風とバイオリン

 67


 二日後に、暁斗はラトヴィアへ旅立っていった。 音楽祭の演出をするためで、最近はそういう企画の仕事も増え、スケジュール調整が大変だった。
 マキ子は、会社時代の人脈を使い、暁斗のためにマネージメント組織を作り上げていた。 規模は小さいがとても効率がよく、評判も上々で、今では、高山勇気〔暁斗の元伴奏者で親友〕や、新進チェリストの桂百子〔かつら ももこ〕など、同じ音大出身の有名人たちが五人もバックアップを頼んできていた。

 夫を成田空港まで送っていった後、マキ子は実家へ戻って、父の和麿に卓斗の快復ぶりを報告した。 活気を取り戻して笑っている初孫の写真に、和麿は目を細めて見入った。
「いい笑顔だ。 来週あたり、見舞いに行っても差し支えないかね?」
 マキ子の目が柔らかくうるんだ。
「来てくださるの? 卓斗が喜びます。 あの子は昔からおじいさまっ子でしたから」

 庭の離れに回って、粕谷一家と楽しく談笑し、マキ子は帰宅ついでに粕谷夫人の万理〔まり〕を新橋まで車で送った。 万理は日舞のお師匠さんで、芸者衆に踊りを教えているのだった。
 万理を目的地で降ろし、手を振り合って別れた直後、マキ子の視線が意外なものを捕らえた。
 それは、派手なタイトパンツの女性と並んで歩いてくる大嶺宰〔おおみね つかさ〕の姿だった。

 女は、宰にぶらさがるようにして、盛んに腕を組もうとしていた。 宰はその都度、うるさそうに肘を抜くのだが、女は懲りずにますますしがみつき、宰も特に押しのけようとはしなかった。
 停まっているマキ子の車のすぐ前に来たとき、宰がジーンズのポケットから何かを掴み出して、女の手にねじこんだ。 女はパッと立ち止まり、握ったしわくちゃの札を急いで数えてから、宰に飛びついて、頬に大げさにキスした。
「ありがと、宰!」
 それから、いきなりUターンしたかと思うと、さっさと人ごみに紛れてしまった。

 マキ子は、思わず運転席から乗り出すようにして、その光景を見つめていた。 タイトパンツの女性は若作りしていたが、午後の明るい光線で見ると、明らかに宰よりだいぶ年上らしかった。
――うちも年上奥さんだから、年長なのは気にならないけれど、あの女の人はちょっと…… ――
 品がない、とマキ子には思えた。 万札を貰ったとたんに去るのも感じがよくなかった。
 付き合う相手がこれでは、一人暮らしは早すぎたか、と少し悩んでいたとき、マキ子はぎょっとして、あやうくクラクションを鳴らしてしまうところだった。
 フロントグラスの前に、突然宰が上半身を倒して、鼻がつくぐらい顔を突き出したのだ。






表紙 目次文頭前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送