表紙
春風とバイオリン

 65


 宰〔つかさ〕は、大嶺〔おおみね〕という財閥の一族で、社長の息子だ。 しかし、本妻に子がないため十代半ばで引き取られてきたというハンデを背負っていて、学生時代は荒れまくっていた。

 彼と初めて高級レストランで会ったとき、マキ子は疲れきっていたが、久しぶりに幸せな気分を味わっていた。 長男の卓斗が、ようやく適合する骨髄にめぐり逢い、手術が成功したからだ。 青白く痩せていた卓斗の顔が、移植二日後にもう活き活きとした血色を取り戻したのを見て、マキ子は病室で初めて泣いた。
 その晩は、奇しくも結婚記念日だった。 忙しい演奏旅行のスケジュールをあけて、夫の暁斗は息子の手術に立会うため日本へ帰ってきていた。 そして、マネージャーが何と言おうと、この日ばかりはふたりで過ごそう、と、落ち着けるレストランに予約を取ったのだった。

 奥まった静かな席に座ると、自然に二人の手が伸び、テーブルの上で握り合った。 見交わす目に卓上の灯りが映って、暖かく揺れた。
「疲れたね」
 マキ子は、淡く微笑んでうなずいた。 暁斗の指に力がこもった。
「いっぱい食べて飲んで、寝ちゃってもいいよ。 車まで運んであげるから」
 笑顔が本物になった。 マキ子はいやいやをするように首を振って、夫の手を軽く叩いた。
「『魂の恋人・弦の詩人』にそんなことはさせられないわ。 本当に倒れたら、粕谷を呼びます」
「彼なら喜んで飛んでくるな。 力自慢だし、お嬢様自慢だし」
 そう言いながら、暁斗は繋いでいないほうの手をポケットに入れて、小さな包みを出し、マキ子の前に置いた。
「うちの女神様に、感謝を篭めて」
 マキ子も急いでバッグに手を入れた。
「私からも、家族思いのパガニーニにいっそうの成功と幸福が訪れますように」
「今夜が最高だよ」
 暁斗はしみじみと言った。
「イタリアで、骨髄の提供者が現れたって知らせを聞いたとき、膝が抜けて床に座り込みそうになった。 神様はいるんだなと本心から思ったよ」
「私も昨夜は久しぶりにぐっすり眠れたわ」
 暁斗の贈り物は精巧なブレスレット・ウォッチで、マキ子からのプレゼントは、サインに使うのにぴったりのペリカン製最高級万年筆だった。
 互いに見比べて、満足感にひたっていたとき、いきなり隣りの席が騒がしくなった。
 右手に坐っていた若者が、突然テーブルの脚を蹴ったのだ。 鈍い音がしてグラスが倒れ、横にいた和服の婦人の胸にワインがはねかかった。
 婦人は、派手な叫び声と共に飛び上がった。
「まあ、何するの? どうして人並みの振る舞いができないの? 本当に、なんて育ちの悪い子!」
 マキ子の背筋が、ぐっと伸びた。 不快感で、口が一文字になった。
 料理をなめらかに口に運びながら、暁斗が呟いた。
「さっきから嫌味を言い続けてたからじゃないか。 この子にはワインの味なんかわかりゃしないんだから安物でいいの、なんて言ってたよ。 育ちが悪いのは自分のほうだよな」
 若者は乱暴に立ち上がってナプキンを婦人に投げつけ、大股で歩き出した。
 カンカンになっていたためだろう、足元がおぼつかなくなって、マキ子の後ろを通るとき、よろめいて肘が触れた。
「あ、ごめん……」
 低い声が残った。 マキ子は、遠ざかる若者の背中に、優しく答えた。
「気になさらないで」
 婦人は、同席していた中年男性の袖を引いて、盛んに訴えていた。
「ねえ、見たでしょう? ああいう子なのよ。 うちにいるときはもっとひどいの。 暴力ふるわれそうで怖くてしょうがないわ。 よそへやってよ。 ねえ、お願い」
「それをしつけるのがお前の役目だろう? もううちへ来て五年になるし、成績だって悪くない。 お前に直接手を上げたことはないんだろう?」
「まあ、そうだけど、物を壊すわよ。 ガラスとか」
「だからそれは、お前のしつけが……」
 たまりかねて、マキ子は夫に目配せしてから立ち上がり、男性に近づいて挨拶した。
「お久しぶりです、大嶺さん。 結婚式でお目にかかりましたわね。 田中です」
「あ」
 気付いていなかったらしく、相手も慌てて腰を浮かせた。
「染小路のお嬢さん……いや、もう奥さんでしたな。 これはこれは」
「たまたまお話が聞こえてしまいました。 男の子はいろいろ手がかかりますね」
「そうなんですよ!」
 味方がきたと思ったらしく、大嶺夫人がここぞと声を高くした。
「やっぱり実の子でないと、気心が知れませんものねえ。 寝首をかかれないかと怖くて」
「おい」
 さすがに大嶺社長が顔をしかめて叱った。






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