表紙
春風とバイオリン

 64


「違うの。 これは宰〔つかさ〕くんのため」
「ああ、大嶺〔おおみね〕のひねくれ坊主」
「もう坊主ではないわ。 そろそろ結婚を考えているそうよ」
 実はもう入籍しているのだが、公表していないため、口にできなかった。
「ほう、政略結婚ですかね」
 そうだとも違うとも言えず、マキ子はあいまいに微笑した。
「どうかしら。 お父さんが無理に押し付けようとした相手を、本気で好きになってしまったらしいの」
「めでたしめでたしですなあ」
 他人事だから、粕谷はのんきなものだった。
「それで、なぜかつらを?」
「ああ、宰くんにね、私を秘書ということにしてもらっていたのが裏目に出てね、相手の娘さんが愛人じゃないかと誤解してるの」
「マキ子様をですか?」
 粕谷は爆笑した。 あまり愉快そうに笑うから、遂にマキ子までつられて噴き出してしまった。
「そんなに変?」
「いやいや」
 笑いすぎの涙を拭きながら、粕谷はモゴモゴ言った。
「わかりますよ。 素顔で行けない理由もよ〜くわかります。 マキ子様は二十八から年を取るのをお忘れになった。 本当にお若い、というか、お可愛らしいですからね」
 武具雑誌の次にスパイ小説の好きな粕谷は、マキ子が変装すると聞いてすっかりわくわくし、興奮が過ぎて車を止めなければならなくなった。
 くすのき通りの右手にあるK公園の駐車場で、二人はあれこれ変身を工夫した。
「皺を描いちゃダメですよ。 昼間だからわざとらしくなります」
「では、眉を少し白くしましょう。 これでどう?」
 画家のように、粕谷は目を細めてマキ子の顔を点検した。
「お似合いですよ。 ちょっと外国人みたいになりました」
 最後にかつらを被って、生え際を整えると、マキ子は明るい光線でも上品な老婦人に見えるようになった。
「このウィッグはよくできていてね、産毛つきなの。 今の新製品は技術が凄いわ」
「腕に髪の毛生やしちゃうコマーシャルをやってましたね」
 楽しげに相槌を打って、粕谷はそれっと車を発進させた。

 カフェ裏手の道に、しずしずとリムジンが停まると、街灯に寄りかかっていた青年が、早足で近づいてきて、マキ子の手を取って車外に連れ出した。
「うわ、まるっきり別人ですね」
 それから、姿勢を正して最敬礼した。
「すみません。 こっちの都合で小母さまにこんなことまでさせて」
「どういたしまして。 めったにない経験だから楽しませていただくわ」
 マキ子は平然と答えた。






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