表紙
春風とバイオリン

 63


 もうクリスマスは終わり、新しい年が数日後に迫っていたが、その朝は陽射しがポカポカと暖かくて、コートなしでも歩けるほどだった。
 ベージュの扉を開いて玄関を出ると、車六台ほど置ける広い駐車スペースに、ゆったりしたリムジンが停まっていた。
 運転席で、楽しそうに『世界の最新兵器』を読みふけっていた粕谷が、パッと雑誌を置いて車から降り、うやうやしく後ろのドアを開けた。
「ありがとう。 久しぶりね、粕谷」
「おはようございます。 今さっき梓お嬢様が自転車に乗って、凄い速さで漕いでいかれましたよ。 粕谷さんラブ! と言われました」
 後部座席に乗ってきちんと坐ると、マキ子はニコッとした。
「あの子はあなたに憧れているのよ。 兄の卓斗が重い病気にかかったでしょう? だから自分は芯から強くなるんだと言って、冬休み中もああやって合気道の鍛錬に」
 照れくさそうに、粕谷は車を出しながら咳払いした。
「わたしは好きで鍛えておるので、手本になるようなことは何もしていません」
「茂樹〔しげき〕くんは高校総体で優勝したし、満樹〔みつき〕くんは砲丸投げの中学チャンピオンでしょう? あなたが立派なお手本だという証拠よ」
「さあ、それはどうでしょうか」
 粕谷はマキ子たちより三年ほど後に結婚し、二人の男の子の父となった。 兄の茂樹は杉山学園柔道部の主将、弟の満樹は江草中学投擲〔とうてき〕部のエースで、二人とも将来のオリンピック候補と期待されている。 さすがの粕谷も、子供たちの話となると、目じりが下がって嬉しさを隠し切れない様子だった。
「卓斗坊ちゃまこそ凄いじゃありませんか。 闘病生活中も作曲に励まれて、大ヒット曲を三曲も出されて。 茂樹が録音して毎日聴いておりますよ」

 マキ子の横顔に影が射した。 一時は命が危ないと言われた難病だったから、レコード会社が飛びついて、デビュー曲が売れたのだ。 そのことで陰口を叩かれたこともあった。
 マキ子はそういう売り方に抵抗を持ったが、夫の暁斗は意外なほど割り切っていた。
「デビューの仕方は、卓斗の場合、大した問題にならないと思う。 あの曲は本当にいい曲だ。 最初は話題性でも、後は曲の良さで売れていくよ」
 才能が認められて、生きるエネルギーが少しでも高まれば、という父の願いの篭もった言葉だった。 その当時、まだ生存の確率は低かったのだ。

 気を取り直して、マキ子は明るい表情に戻った。 粕谷は無邪気に喜んでいる。 それに、卓斗の曲は二曲目のほうがずっと販売数を増やしたのだから。
 車は、一段と賑やかな大通りへと曲がった。
「あとどのくらいで大嶺トレーディングビルに着く?」
「五分ぐらいですかな」
 マキ子は頷き、紙のバッグから包みを取り出して、車内備え付けのサイドテーブルに載せた。
 包みの中から出てきたものをちらっと見て、粕谷は驚きの表情になった。
「白髪のかつら…… 朝から仮装パーティーに出席されるんですか?」




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