表紙
春風とバイオリン

 62


 サンドイッチを食べ終わると、ただちに梓〔あずさ〕は鞄を肩にドンと掛けて、玄関へ突進した。
 それでも、途中ですれ違った母の横で体を前倒しにして、頬にキスしていくのは忘れなかった。
「いってきま〜す」
「いっていらっしゃい。 帰りは?」
「六時半か七時」
「痴漢に注意!」
「お母様も引ったくりに注意!」
 若い声は、あっという間に遠ざかった。

 歯を磨き終わった卓斗〔たくと〕は、洗面所に入って念入りに顔を洗っていた。 どうやら今日は、有名歌手で臨時講師の谷香苗〔たに かなえ〕の講義がある日らしい。
 うちの男性は年上の人に惹かれる遺伝子があるのかしら、と、マキ子は内心可笑しかった。
 鏡で念入りに髭の剃り跡チェックをしている息子を、見るともなく眺めていると、鏡面で目が合った。 卓斗は背筋を伸ばし、低い声で言った。
「そんな不安げな目で見なくていいですよ。 僕はもう大丈夫。 完璧とはいかないけど一応健康体だから」
 マキ子の視線が珍しく揺れ、床に落ちた。
 卓斗は静かに続けた。
「心配かけてすみません。 朝は元気なく見えるんだろうなあ」
「心配はしていません」
 動揺から立ち直って、マキ子は凛々しく答えた。 卓斗は幼い頃からほとんど風邪も引かない元気な子で、まったく手がかからず十四歳まで育った。 だが、中学三年の夏、伊豆の別荘で不意に倒れて、急性骨髄性白血病と診断されたのだ。

 適合する骨髄が見つかるまで、半年かかった。 演奏旅行の度に、父の暁斗は外国でまで病院を尋ね歩き、協力を頼んで回った。
 まき子は息子を看病し、励ましながらも、三つ年下の梓が寂しがらないように、帰宅時間にはできるだけ家にいて迎えた。 綱渡りのような毎日だった。 終いに、藁にすがる思いで改名までやった。 まき子から、マキ子へ。

 母の思い出が伝わったように、卓斗が呟いた。
「お百度踏んだり、名前変えたりしてくれた。 迷信かもしれないけど、ありがたかった」
「もともと、まき子という平仮名ではないから」
 マキ子は笑おうとした。
「摩子と書いてまきこと読んでくれる人がいなかったの。 まこ、といわれるのが嫌で、平仮名にしたのよ」
「お母様には一生頭が上がらないな。 ささやかだけど、お礼しますよ。 出かけるなら、車で送っていきます」
「結構よ」
 マキ子はサラッと断わった。
「今日は久しぶりに、粕谷が来てくれるの」




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