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サンドイッチを食べ終わると、ただちに梓〔あずさ〕は鞄を肩にドンと掛けて、玄関へ突進した。
それでも、途中ですれ違った母の横で体を前倒しにして、頬にキスしていくのは忘れなかった。
「いってきま〜す」
「いっていらっしゃい。 帰りは?」
「六時半か七時」
「痴漢に注意!」
「お母様も引ったくりに注意!」
若い声は、あっという間に遠ざかった。
歯を磨き終わった卓斗〔たくと〕は、洗面所に入って念入りに顔を洗っていた。 どうやら今日は、有名歌手で臨時講師の谷香苗〔たに かなえ〕の講義がある日らしい。
うちの男性は年上の人に惹かれる遺伝子があるのかしら、と、マキ子は内心可笑しかった。
鏡で念入りに髭の剃り跡チェックをしている息子を、見るともなく眺めていると、鏡面で目が合った。 卓斗は背筋を伸ばし、低い声で言った。
「そんな不安げな目で見なくていいですよ。 僕はもう大丈夫。 完璧とはいかないけど一応健康体だから」
マキ子の視線が珍しく揺れ、床に落ちた。
卓斗は静かに続けた。
「心配かけてすみません。 朝は元気なく見えるんだろうなあ」
「心配はしていません」
動揺から立ち直って、マキ子は凛々しく答えた。 卓斗は幼い頃からほとんど風邪も引かない元気な子で、まったく手がかからず十四歳まで育った。 だが、中学三年の夏、伊豆の別荘で不意に倒れて、急性骨髄性白血病と診断されたのだ。
適合する骨髄が見つかるまで、半年かかった。 演奏旅行の度に、父の暁斗は外国でまで病院を尋ね歩き、協力を頼んで回った。
まき子は息子を看病し、励ましながらも、三つ年下の梓が寂しがらないように、帰宅時間にはできるだけ家にいて迎えた。 綱渡りのような毎日だった。 終いに、藁にすがる思いで改名までやった。 まき子から、マキ子へ。
母の思い出が伝わったように、卓斗が呟いた。
「お百度踏んだり、名前変えたりしてくれた。 迷信かもしれないけど、ありがたかった」
「もともと、まき子という平仮名ではないから」
マキ子は笑おうとした。
「摩子と書いてまきこと読んでくれる人がいなかったの。 まこ、といわれるのが嫌で、平仮名にしたのよ」
「お母様には一生頭が上がらないな。 ささやかだけど、お礼しますよ。 出かけるなら、車で送っていきます」
「結構よ」
マキ子はサラッと断わった。
「今日は久しぶりに、粕谷が来てくれるの」
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