表紙
春風とバイオリン

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 マキ子は、寝室の鏡を覗き、ふさふさした濃栗色の髪を、もう一度ブラシで整えた。
 最近愛用の『成平屋』のバッグに、大きな紙の手提げを重ねて持って、とんとんと階段を下りていくと、廊下を息子の卓斗〔たくと〕がウロウロしていた。 口に何か入れているので、じっと観察したマキ子は、あきれて首を振った。
「卓斗さん、止めて。 歩き回りながら歯を磨くのは」
「すむむすん」
 はっきり喋れない。 口からようやく歯ブラシを出して、卓斗はにっこりした。
「すみません、お母様。 洗面所でじっと立っているのが退屈だったもんだから」
 微笑んだまま、卓斗は庭をガラス戸越しに指差した。
「ほら、ダンボがボールを追いかけてますよ」
 マキ子もつられて、廊下に並んで外を見た。 ダンボとは、一家が飼っている日本猫の名前で、下の子の梓〔あずさ〕が二年前、学校帰りに拾ってきたのだった。
 そこへ、ドドドッという足音が近づいてきた。 靴下を履いているだろうに、まるで馬の蹄のような大音響を立てる。 廊下の二人にはその正体がわかっているから、驚かずにダンボのかわいい仕草に見入っていた。
 やがて、廊下の角で急ブレーキをかけ、危うく回ってきたのは、ダンボの『お姉ちゃん』、梓だった。 白い額に漆黒の前髪が揺れ、父親譲りのくっきりした二重の瞳が濡れたように輝いて、思わず目を奪われるような美少女だ。
 口一杯に、大きなサンドイッチをほおばってさえいなければ。

 マキ子は、背中をすっくと伸ばして、ぴしりと言葉を投げた。
「止まりなさい!」
 とたんに、梓は角を二歩曲がったところで、ピタッと静止した。
 マキ子は、威厳を持って命じた。
「そこに正座して、食べ終えてから出かけなさい」
 あやつり人形のごとく、梓はすうっと板の上にきちんと座り、肩に斜め掛けした通学バッグを横に置いて、おとなしくサンドイッチを食べ始めた。
 何事もなかったように、マキ子は庭に向き直り、引き戸を少し開けて、猫を呼んだ。
「ダン! おいで!」
 すると、茶色のまるまるした毛の固まりは、すぐに鈴入りボールに興味を失い、尻尾をピンと立てて、廊下の足拭きに飛び上がった。
 坐りこんでそれを見ていた梓が、持ち前の声量豊かな声を出した。
「お母様って、猫に命令しても百発百中ね」
「よく観察して、見習えば?」
 卓斗が、面白そうに言った。




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