表紙
春風とバイオリン

 60


 この東北公演が、暁斗の大きな転機となった。
 まき子がそつなくバックアップし、スケジュールを調整して暁斗の余計な緊張をほぐしている間に、後から到着した和麿が、大物プロデューサーや有名音楽家と次々コンタクトを取り、未来の婿をさりげなく売り込んだ。
 和麿の褒め言葉を聞いて、眉に唾をつける関係者もいたが、そんな疑い深い人間でさえ、暁斗の演奏を一度聴くと、なるほどと納得した。
 やはり、最後は実力が物を言った。

 『森のページェント』が終了したとき、暁斗には出演依頼が次から次へと来た。 まき子は全ての申し込みを丁寧に聞き、きちんとまとめて記録に残した。
 それからは、本人の暁斗、和麿、まき子の三人で、じっくり検討する番だった。 怪しいオファーに引っかからないように、これから飛躍するための土台になるように、出演場所を選ばなくてはならない。 難しいが、胸が躍る話し合いになった。


 もちろん、仕事ばかりではなく、幸せな時間をたっぷり取るのも忘れなかった。 初日に、薪能〔たきぎのう〕とのコラボで大喝采を浴びた後の夜更け、ふたりは手を取りあって、瑞鳳殿にほど近い静かな雑木林の中を歩いた。
 気分が高揚して、足が浮きあがるほど軽かった。 踏みしだく小枝のかすかな響きが、耳に快い。 暁斗は不意に立ち止まり、まき子の片手を取って、その体をくるくるっと回した。
「俺たち、このダンスから始まったんだよな」
「ええ、急にディスコへ連れ込まれて、驚いたけれど楽しかったわ」
「俺の場合、バイオリン弾いてるときに、これまで経験したことが頭に浮かぶんだ。 悲しい曲の時はいろんな辛かったこと、明るくて輝かしい曲のときは、楽しかったり嬉しかったりしたときの光景が、パッパッとひらめいて」
 まき子の手を取ったまま、暁斗は夜空に向かって大きく両腕を広げた。 大空のあちこちに散った星から、光の魂を呼び集めるように。
「でも、今日は、最終のリフレインのところで、何も考えなくなった。 余計なことが全部消えて、曲そのものになりきってたんだ」
「または、曲があなたそのものに。 だから、弾き終わった後ぼうっとした表情だったのね」
「うん。 拍手もしばらく聞こえなかった。 すごくいい気持ちだった。 まき子さんがやっと婚約取り消した日と、同じ快感だった!」
 暁斗がいつまでも酔いしれたように腕を広げているので、まき子も、彼と向かい合って両手を上げてみた。
「夜中に二人でラジオ体操しているみたいね」
 プッと噴き出して、暁斗はようやく腕を下ろした。
「ロマンチックじゃなーい」
「昔風の女だもの。 照れくさいのよ」
「じゃ、もっと照れくさくしようか」
 そう言うなり、暁斗は両腕を、今度は横に大きく開いて、声を張った。
「さあ、ボクの愛しいジュリエットよ、君に恋い焦がれる我が腕に、思い切り飛び込んでおいで」
 まき子はちょっと考えた。
「ジュリエットって、たしか十四歳だったはず」
「ほんとのこと言おうか」
 暁斗が面白そうに口を挟んだ。
「勇気のやつ、まき子さんを最初に見たとき、十代なのにえらく大人っぽい服着てるなって思ったんだってさ」
 十代! 小柄だしメイクも薄いのは確かだが、まさか十年も若く見られたか!
 正直、悪い気はしなかった。 まき子は顔一面を笑いにして、暁斗の胸にすっぽりと体を溶け込ませ、深いやすらぎの中で目を閉じた。





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