表紙
春風とバイオリン

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 夏の終わりに、宮城県で『森のページェント』と名付けた音楽祭が開かれることになっていた。 自然保護を訴える数々の出し物が上演され、国内だけでなく国外からも名のある音楽家や画家、俳優に演出家達が多数参加する予定だった。
 まさに、暁斗の実力を世界一流の人々に知らせるチャンスと言えた。 まき子は、参加予定の名士たちの名簿を手に入れ、父のところへ持っていった。
「お父様、お付き合いのある方が、この中にいらっしゃる?」
「どれどれ」
 シニアグラスをかけて、和麿はじっくりと表を調べた。
「チェリストのジョージ・ベル、それに、バレーの振り付けで来るダニエラ・スティッキ、映画監督のトム・ショー。 それに、ほれ、ピアニストのゴードン・テイラーはうちに来たことがあるじゃないか。 覚えているだろう?」
「ええ、そう言えば」
 父は、知り合いの芸術家たちに何人もチェックを入れたあげく,久しぶりだから皆に会いたいと言い出した。
「おまえ達は新幹線で行くんだろう? わたしは後から飛行機でひとっ飛びしよう。 まき子、おまえホテルの予約しておいてくれるか?」
 まき子は目をまん丸にした。 おまえ達って……それでは、暁斗と二人だけで旅に出るのを許してくれるんだろうか?
「お父様!」
 声が弾んだ。 和麿は微笑しながら手帳を取り出した。
「粕谷がな、じっくり観察したところ、暁斗くんは本物だと言うんだ。 芸術家としても、恋人としてもな。 粕谷自身はクラシックに何の興味もないらしいが、人を見る目は相当なものだ。 野性の勘というのかな。
 だから、わたしの運転手からおまえのガードに回したんだよ。 おまえが幸せな結婚をしたら、また戻してもらうよ。 貴重な人材だからな」
 伸び縮み自在の警棒とか、折りたためるライフルとか、日頃はそんなものにしか興味を示さない粕谷のどこに、人の本質を見抜く力があるのか、まき子にはよくわからなかった。 でも、わからないなりに粕谷は好きだった。 筋を曲げない強さと、きちんと義務を果たすひたむきさが、彼の魅力だった。

 晴れ晴れとした気持ちで外に出ると、粕谷が口笛を吹きながらリムジンを洗っていた。
 小ウサギのように飛び出してきたまき子を見て、粕谷は驚いてホースの水を止めた。
「急にお出かけですか? 五分待ってくださいね。 今すぐ洗い終わりますから」
「ゆっくりやって。 急ぎません。
 ねえ、粕谷?」
「はい」
 安心してまた腕まくりをすると、粕谷はブラシを手に取った。
「お礼を言いたくて来たの。 ありがとう」
「何ですか、不意に?」
 わかっているくせに気付かないふりをして、粕谷は筋肉の盛り上がった腕をしなわせて、車をごしごし洗い始めた。





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