表紙
春風とバイオリン

 54


 きゃしゃに見えるが、暁斗の胸は意外に広かった。 細くて小柄なまき子をすっぽり包み込んでしまうぐらい、大きかった。
 目を閉じると、彼の匂いがした。 五月の芝生のような、青くて、ちょっぴり埃っぽくて、気持ちのいい匂い……
 まき子の頭にギュッと頬ずりして、暁斗が低く尋ねた。
「俺のどこがよかったの? ていうより、ほんとに俺でいいの?」
「いいの、あなたが」
 静まり返った部屋に、まき子の声が甘く延びた。 その答えを聞いて、暁斗はだだっ子のように、両腕でまき子を軽く揺すった。
「かわいげないって、いつも母ちゃん……母さんに言われてるよ」
 目を閉じたまま、まき子は微笑した。
「母ちゃんと呼んでいるのね」
「たまに。 ふつうは何も呼ばない。 ねえ、とか、あのさ〜とか」
「うちの母は、私が十五の時に亡くなったの。 お母様がご健在で、うらやましい」
「うらやましがられるような母ちゃんじゃないよ。 いつも明るくしてて、うるさく言わないのはいいけど」
 そう言うなり、暁斗は身をかがめてまき子の額にキスした。 それから頬に、続いて唇に。

 顔が離れたとき、まき子がきょとんとした表情だったので、暁斗は驚いた。
「どうしたの?」
「え?」
 あっけに取られたような顔のまま、まき子はとても素直に答えた。
「キスってこんなに、楽しいものだったのね」
 暁斗は、口を開けて恋人を見つめ、また閉じた。
 そして、プッと吹き出した。
「キスが嫌いだった?」
「そうね……なんとなく義務感で。 でも、何も感じなかった。 だから、本や映画は大げさなのだと思っていたのよ、ずっと」
「義務感って……」
 暁斗は言葉を途中で切った。 それから、まき子の頭を抱えこむようにして、激しいキスの雨を降らせた。
「わかってなかったんじゃないか。 女心をよく知ってるようなこと言って、あいつ何にもわかってないんだ」
 怒ったようなキスなのに、肝心なところで優しかった。 初め、まき子は新しい感動を味わっていたが、間もなく考える力がなくなった。 ただ、無性にわくわくした、心が踊りだすような気分だった。






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