表紙
春風とバイオリン

 52


 和麿の顔に、苦味を帯びた笑いが浮かんだ。
「勝負はついたようだね」
 そして、再びまき子の肩を軽く押して、前を向かせた。
 直径一ミリ半ほどの小さなほくろは、まき子の左頬骨、目の下で一番高くなったあたりについていた。
「わたしはね、娘ときちんと向き合ってくれる相手を選びたい。 いくら幼なじみとはいえ、顔もまともに見ないのでは先が思いやられる」
「その相手が、財産と家柄目当てとわかりきってるのに選びますか?」
 遂に博史は、真っ向から侮辱の言葉を投げつけた。

 暁斗は、まき子が予想したほど怒らなかった。 額がいくらか紅潮した程度で、落ち着いた様子だった。
 もう個人攻撃しか手がなくなった博史には目もくれず、暁斗は和麿に視線を定め、心に届く声音で言った。
「僕は確かに貧乏だし、まだ駆け出しです。 コンクールで優勝しても、ほんの入口にすぎません。
 これまでは、ハンデが多くて、なにくそと思いながらやってきました。 だから曲想に幅かなくて、激しすぎるとか狭いとか、息苦しいとか言われ続けていました。
 でも、まき子さんに会って、変わったんです。 自分じゃわからなかったんだけど、仕上げ練習のとき、先生に言われました。 奥行きが出てる、曲が熟すのを待てるようになったって。
 いい恋をしたと思います。 片思いでも、充分報われた気持ちでした。
 でも、まき子さんが僕を選んでくれたのなら、それで、僕が貰ったものの半分でもまき子さんに返せるなら、もう諦めません。
 どんな形でもいいから一人前のバイオリニストになります。 お借りした楽器にふさわしい弾き手になれたら、まき子さんに訊きます。 夢は何かって。 今度は僕が、彼女の夢を叶える番だから」
「子供のたわごとだ! 歯が浮くよ!」
 博史が叫んだ。
「現実の結婚生活は、そんなに甘いもんじゃない。 退屈で単調なものなんだ。 いつまでも新婚ごっこなんて続かないんだよ!」
「灰色の未来を先取り?」
 まき子が、たまりかねて尋ねた。
「常にゴールを先に置いて、そちらばかり見ているのね。 どうせ先はこうなるのだからと、今を切り捨てていくなんて」
「しかも暗い面だけ見ている」
 和麿が、ハイフェッツのレコードをプレーヤーに入れ、スイッチを押した。 柔らかなG線上のアリアがスピーカーから流れ出て、部屋を静かに満たした。
「生まれ変わってもまた一緒になりたいという夫婦が、三分の一いるんだよ。 情熱は次第にぬるま湯に変わるかもしれないが、相性は変わらない。 好き合って一緒になったのなら、お互いちょっとの思いやりで、仲よく暮らせるはずだ」
「僕に思いやりがないというんですか? 聞き捨てならないな!」
 博史は見当外れな部分で、また機嫌を損ねた。 もうこうなると平行線をたどるしかない。 和麿は遠まわしに言うのを止め、きちっとけりをつけることにした。
「もともと田中くんとは直接関係のないことから亀裂が入ったんだ。 婚約中にフィアンセを裏切り、愛人を作る男は、うちの婿にふさわしくない。 博史くん、君との話は、なかったことにしてもらおう」





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