表紙
春風とバイオリン

 51


 博史は、素早く情況を判断した。 当惑したように手をだらんと下ろすと、声のトーンを変えて、まき子に訴えかけた。
「確かに、親しくなりすぎたかもしれない。 一度か二度、部屋に行った。 酔っていたんだ。 酒の上のあやまちなんだよ。 男にはありがちなことだ。 そんなに厳しくしないでくれよ」
 まき子は静かに席を立った。 同時に、暁斗も立ち上がり、ソファーを離れて、デスクの横に場所を取った。 それは、博史とまき子のちょうど中間ぐらいの位置で、揉めたらすぐ割り込めるところだった。
「さっきは濡れ衣だと言い、いまはあやまちと言うのね。 どちらを信じていいかわからないわ」
「だから、すまなかった!」
 博史は吠えた。
「出来心だったんだ。 本気じゃない。 もう別れたんだから、それでいいじゃないか!」
「博史さんはその方を好きだった。 一緒にいて楽しかったのでしょう?」
 責める口調ではなかったのにもかかわらず、博史は頭に血が上った。
「もう縁は切れたんだ! いつまでもごちゃごちゃ言わないでくれ! あんな色気だけの女、まともに相手にするわけないだろう? 僕を安く見ないでくれよ!」

 皮肉にも、この言葉が決定打となった。 初めて、まき子の眼に怒りの炎がひらめいた。
「この女、あの女と使い分けするんですね! では伺うわ。 私はあなたにとって何の女?」」
 博史は瞬きした。 水を浴びせられたような表情になり、口をつぐんだ。
 まき子は、一歩前に出て、婚約指輪を薬指から抜いた。 抜きながら、きっぱりと言った。
「女だって、パーティーならワイン通のこの人、遊園地なら情報通のこの人、昼はハンサムで見栄えのする彼、夜は徹底的に尽くしてくれる彼、そんな軍団を従える夢を、一度は見るわ。
 でも、夢だから楽しいの。 人は便利な道具じゃない。 私は道具として扱われたくないから、今日ここで、お別れします」


 博史は、ゆっくりと手を後ろに回して組んでしまった。 絶対に指輪を受け取りたくないという意思表示だった。
 二人の視線に火花が散った。 瞬きせずに見つめ返したまま、まき子はテーブルの上に指輪を置いた。 カチッという小さな音が、静まり返った部屋に響いた。
 和麿がゆっくり進み出て、娘の肩に手を置いた。 そして、そのままくるっと半回転させ、前に離れて立つ二人の青年を交互に眺めた。
「質問をしよう。 まず博史くんからだ。 まき子の顔には小さなほくろが一つだけあるんだが、どこかね?」
「何言ってるんですか、小父様。 こんなときに」
 博史の頬にピリッと引きつれが走った。
「こんなときだからこそ訊いているんだ。 答えられんのかね?」
 いまいましそうに、博史は目を天井に向けた。
「右の頬ですよ」
 すぐに和麿は、暁斗を促した。
「君にも同じ質問だ。 どこだね?」
 博史が部屋に入ってきてからそれまで、まったく無言を通していた暁斗だったが、和麿の問いに確信を持って答えた。
「左の頬です」





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