表紙
春風とバイオリン

 50


 博史は、ゆっくりと体の向きを変えた。 少し角度をつけて、暁斗と正面から向き合う態勢を取った。
「世の中には釣合いというものがある」
 無理に押えた太い声だった。
「バイオリンが弾けるだけの小僧っ子に、伝統と格式のある染小路家の婿が務まるか?」
「できると思うよ、わたしは」
 ハイフェッツの復刻版を手に、和麿が振り返って、さらっと言った。 博史の眦〔まなじり〕が吊りあがった。
「和麿小父様!」
「田中君には素直さがある。 向上心と理解力も」
「そう振舞っているだけですよ! ネコかぶっているんだ!」
「本心を見せていないということかね? それは君のほうじゃないのか?」
 和麿の語調が鋭く変わった。 そして、ジャケットの内懐に入れていた例の手紙を、義理の息子になるはずだった男の目前に突き出した。

 博史は、受け取ってすぐ中身を広げた。 素早く目を通すと、いきなり引き裂いた。
「こんなのでっちあげです。 ライバルの誰かが僕を陥れようとして作ったんですよ。 小父様もまきさんも、こんな幼稚な手紙を信じるんですか? ばかばかしい!」
 まき子は、重い眼差しで博史の表情をしかと確かめた。 見たくないものを見てしまった、という不快な苦さが、口の中に残った。
「驚かないんですね」
 一瞬、虚をつかれた表情が、博史の横顔をかすめた。
「えっ?」
「予想していたか、または、送られたことを知っていた。 そうなんでしょう?」
 博史は、笑おうとした。
「なぜそんな深読みを? 秋山くんは確かに研究室の手伝いをしてくれてるが、それだけだ。 これは、僕の幸運をねたんだ男の同僚が……」
「たぶん違います」
 まき子は粘着する博史に哀しみを感じはじめていた。
「その中にある『原』と『秋』の活字には、見覚えのある花模様がついています。 たしか、『マグノリア』という若い女性用のモード雑誌が使っている飾り文字です。 ふつう男性は、あの雑誌は買いません」
「その秋山奈穂子さん本人か、友達が切り抜いたということだろうか」
 和麿が後を引き継いだ。





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