表紙
春風とバイオリン

 46


 まき子は何も言葉にせずに、挨拶も差出人の名前もない手紙を暁斗に返した。 首筋に妙なしびれが走ったが、不思議なほど驚きはなかった。
「ほんとに僕じゃないです」
 糊のせいでぶよぶよになった紙を机に置きながら、暁斗は必死に言った。
 和麿は、手紙を汚らわしそうに横目で見て、低く告げた。
「朝届いたので、粕谷に調べに行かせた。 秋山なお子という学生は確かにいるそうだ。 菜の花の菜と、稲穂の穂で、菜穂子と書くようだが」
 切り抜きに使った雑誌や新聞に、その漢字が見つからなかったのだろう。 蛯原の蛯という字も。 鋏を片手に必死でページをめくって探している密告者の姿を想像して、まき子は暗い気持ちになった。
「二人の仲は、公然の秘密らしい。 その女子学生は、身分不相応なブランド物のバッグやコートを、見せびらかすように着てくるそうだ」
 そこで和麿は、厳しい目を暁斗に浴びせた。
「君も大学に行って、博史くんの素行を調べたのか?」
 暁斗は唇を噛みしめて、ぶんぶんと頭を振った。
「違います! 母がその大学へ保険の外交に行ったとき、噂を聞いてきたんです。 それで……」
「それで、まき子に話そうとした?」
「……ええ」
 暁斗の視線が揺れた。
「ても、言い出せなかったんです。 陰で足引っ張って自分を売り込むようで、なんか嫌で」
「いい心がけだ」
 かすかに皮肉の篭った口調で、和麿は返した。
「これが君ではないとすると、他の敵だね。 博史くんの大学でのライバルか、または秋山菜穂子本人か」
 まき子は相変わらず無言だったが、気持ちの中では一つの決着がつきかけていた。
 首をめぐらせて大きな掛け時計を見ると、時間は一時二十二分になるところだった。




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