表紙
春風とバイオリン

 45


 ドアの前で、暁斗はいったん立ち止まり、眼を閉じて考えをまとめていた。
 それから、毅然と顔を上げてノックした。
「お入り」
 分厚いドア越しに聞こえてきた和麿の声も、いつもとは少し違う硬さがあった。
 暁斗は一度、強くまき子の手を握った。 それから力を緩めて離し、小さく囁いた。
「行こう」
 まき子も素早くうなずいた。 暁斗は胸をふくらませて、しっかりと挨拶を口に出すと、ドアを開いた。
「失礼します」


 和麿は、楽器棚の前にあるどっしりしたデスクに寄りかかるようにして立っていた。 並んで入ってきた二人を目にすると、姿勢を正して足を踏みしめ、まず娘のまき子を、それから暁斗をゆっくりと眺めた。 その視線には、当惑と軽い怒り、それによくわからないためらいとが入り混じった複雑な感情が隠れていた。

 まず口を切ったのは、暁斗だった。 若さは怖いもの知らずにつながる。 家の格や財産の有無を意識の上で飛び越えて、暁斗は放たれた矢のように夢へ直進した。
「突然来てすみません。 結婚が決まる前に言わなきゃならなかったんです。
 どうか、まき子さんとの交際を許してください。 お願いします!」

 一息で言い終えるなり、暁斗は上半身を直角に倒して、動かなくなった。
 彼の背中越しに、和麿の視線がまき子を捕らえた。 まき子も緊張の面持ちだったが、内心の不安を見せず、柔らかな眼で父を見返した。
「許してください、お父様。 博史さんの申し込みを受けたのは私ですのに、このようなことになってしまって」
 密やかな溜め息が和麿の口から洩れた。
「弁解はしないのだな」
「できません。 心変わりをしたのは私です。 責めは私にあります。 ただ」
「ただ?」
「もう博史さんとは将来を誓い合うことはできません。 生き方も、将来の夢も、違いすぎるのです。 婚約してからわかるなんて、うかつすぎることですけれども」
「確かにな」
 今度ははっきり聞こえる吐息を発して、和麿はデスクに近づき、引出しから開封済みの封筒を出して、中身を広げた。
「田中くん」
「はい」
 頭を上げて、暁斗は詰まった声で答えた。
「これに見覚えは?」
 暁斗は驚いた様子だった。 二歩前に出て紙を受け取り、目を通したとたん、息を呑んだ。
「これ……」
 じっとその様子を観察していた和麿が、鋭く切り返した。
「内容は知っていたな?」
 紙から目を離さずに読み返した後、暁斗は裏表を引っくり返して、便箋を確かめた。
「まさかこんな……」
「心当たりが?」
「いえ……絶対ちがいます!」
 突如、暁斗の声が割れた。
「こんな汚いことする知り合いはいません! もちろん僕じゃないし!」
 汚いこと? まき子の眼が大きくなった。 急いで暁斗に近づくと、彼は青ざめた顔を上げて、奇妙なガサガサした紙をまき子に差し出した。
「見て」
 受け取った紙には、いろんな大きさの字が切り張りしてあった。 まるで脅迫状のように。

『えび原博史には 大学院生の愛人 秋山なお子 がいます おじょう様には ふさわしくない男です』




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