表紙
春風とバイオリン

 42


 暁斗は、テーブルに右手を上げた。 腕をゆっくり前に伸ばし、まき子の視野の真ん中に、その手を置いた。
 指が長かった。 関節がくっきりしているが柔らかそうで、薄く血管が浮き出ていた。
 まき子の唇が、ピクッと震えた。 人生の分かれ道が、今、目の前にあるのだと思った。
「上に手を載せて。 俺を嫌いでないなら」
 周りはいろんな音に包まれていた。 表通りを走りすぎる車。 店内のざわめき。 時おり響く楽しげな笑い声。
 だがまき子は、外界から遮断され、音の消えた空間で、ひたすら暁斗の手を見つめていた。 まるで魔法にかかったように。
 長い指が、わずかに動いた。
「行こう。 俺と」
 行く。 ふたりで行ってしまう。 一時半からの約束をすっぽかして、喫茶店『こでまり』に駆けつけることなく……!
 その瞬間、体が動いた。 まき子の手は、理性の壁を飛び越えて、ひとりでに暁斗の手に重なった。

 小さな手は、すぐに暁斗の両手に挟みこまれ、まったく見えなくなった。 暁斗は、短く息をつきながら椅子を後ろへ追いやった。
「こっち」
 引っ張られるままに、まき子は歩き出した。 初めて会ったときと同じだった。 あのときも、こうやって先を考える間もなく、ディスコ・ルームに引き入れられた。
 これからどこへ行くのだろう。 何が待っているのか。 わからないのに、なぜか気持ちに翳りはなく、胸が活き活きとときめいていた。


 手をしっかり繋いだまま、ふたりは狭い路地に入り込み、しばらく歩いた。 繁華街の真ん中だが、ビルの裏や長い塀の途切れるところに、ぽつぽつと普通の民家やアパートの姿もあった。
 はじめ、暁斗は早足だった。 だが間もなく、まき子が追いつくのに苦労していることに気付いて、足を緩めた。
「ごめん、急ぎすぎた」
「どこへ行くの?」
 やっと訊くことができた。 暁斗はくっきりした眼に深い想いを込めて、小柄な恋人を見返した。
「まき子さんのお父さんのところ」





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