表紙
春風とバイオリン

 38


「はい、私ですが」
 なんで今日に限って二人とも会社にかけてくるんだろう。 仕事場にはできるだけ電話しないでくれと、特に博史には口に出して頼んであるのに。
 まき子はやや他人行儀な声で返事をしたが、博史は彼女の声音なんて気にしていなかった。 パサパサと紙をめくる音を背景に、博史は早口で予定を述べた。
「ああ、まきさんね。 ええと、『カズンズ』でランチを取って、それから引き出物を選びに行こう。 銀座を回れば何とかなるかな。 京都まで足を伸ばしてもいいけど」
 何言ってるの、この人?――まき子は呆れて、冷たさを増した口調で返事をした。
「今は仕事中で……」
「午後は休みにしてもらったよ」
 はあ? 事情がわからず、まき子は電話口で固まった。
 博史はどんどん言葉を進めていた。
「大学の先輩がそこの部長さんと知り合いでね、電話して事情を説明したら、どうぞどうぞってことで。 いつでも休めるんだね。 やっぱり大したことしてないから」
「待って」
 怒りを押えた低い声で、まき子は確かめた。
「事情って、私達のお約束のこと?」
「もちろんさ。 君、結婚のことまだ話してなかったんだね。 脇山部長さん、驚いていたよ」

 まき子は、坐っていた椅子からゆっくりと立ち上がった。 表情は変えないが、眼の奥に剣の冷たいきらめきが宿った。
「話す時期は私に任せるはずだったでしょう?」
「そうだったっけ? まあいいじゃないか。 どうせすぐに辞めるんだから」
「あなたはこの午後お暇なの?」
 博史はいくらかひるんだ。
「いや……講義があったがキャンセルしたんだ」
 まき子の顎が上がった。
「それでも構わないの? 大したことしてらっしゃらないのね」

 電話の向こうは沈黙した。 日頃物静かなまき子から、まさかこんな鋭い皮肉が飛ぶとは、予想していなかったようだった。





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