表紙
春風とバイオリン

 36


 二人が帰ると、まき子は急に疲れて老け込んだ気持ちになって、うつむきながら二階へ上がっていった。
 暁斗は優等生じゃない。 小さな竜巻のように荒っぽくて方向性がわからず、回りをハラハラさせるタイプだが、そこが魅力だ。 うまくデビューしたらきっと人気者になるにちがいない、と、まき子の本能が告げた。
――皮肉屋だから、ちやほやされて我を忘れるタイプじゃないけど、それでも環境が変われば自然にカッコいい女の子たちが寄ってくる。 よりどりみどりになるわ――
 あっという間に、地味な私のことなんか記憶の隅に追いやられてしまう、と、まき子は自分に言い聞かせた。
 なんだか、思った以上に寂しかった。


 その予想は、当たったように見えた。 十日間、暁斗からは何の音沙汰もなく、一方、蛯原博史のほうは、せっせと入り浸っていた。
 式は○○神宮で挙げ、披露宴は赤坂の△△ホテルの『比翼の間』で、列席者はおよそ三百人…… どんどん結婚話が具体的になる中で、まき子は他人事のように醒めていた。
「お客様が大勢なのは歓迎だけれど、演出が派手すぎるのは嫌よ。 スモークを焚いたり、ゴンドラで降りてきたりするのは、私には無理。 大柄な美人ならいいでしょうけれど、この体型では、バル○ンで燻蒸されたネズミみたいに見えるわ」
「バル○ンって……」
 博史は絶句した。
「君って意外に面白いことを言うんだな」
 意外に? 子供時代からもう十五年以上の知り合いなのに、博史はまき子の本性をほとんど知らないらしかった。
 そう言えば、いつもお説教されるばかりだった、と、まき子は思い出した。 あれを読みなさい、あの映画は女性向きでいいよ、乗馬のコーチなら僕に任せなさい、などなど。 博史は常に前に立って歩いていて、背後のまき子を見ようとはしなかった。

 家で結婚準備が進んでいることを、まき子は会社では誰にも話していない。 だから、ごく普通の仕事風景が続いていた。
 そんなモノトーンの日常が、いきなりピカソの絵に変わったのは、オフィスにかかってきた一本の電話からだった。





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