表紙
春風とバイオリン

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「あんな宝物のバイオリン、本当にお借りしていていいんですか?」
 やがて克子が心配そうに訊いた。 値段が億を越えると知って、不安になったらしい。
 まき子が答えようとしたとき、ドアが開いて和麿が入って来た。 暁斗がもそもそと立ち上がったので、克子も慌てて右に習った。
「お邪魔しています。 バイオリンを貸していただきましたこの田中暁斗の母でございます」
「ああ、初めまして」
 和麿は鷹揚〔おうよう〕に頷き、坐るよう促してから自分も席についた。
「さっき審査員の一人の江上とばったり遇ってね、暁斗くんは満場一致の優勝だったそうですよ。 おめでとう」
「まあ、そうですか! ほら、あんたもお礼言いなさい」
 顔を輝かせた母に指で突っつかれた暁斗は、ぴょこっと頭を下げた。


 二十分ほどなごやかに話し合った後、まき子は玄関まで二人を見送りに出た。 タクシーを呼ぼうかと言ったが、克子は丁寧に断わった。
「ご心配なく。 バスと電車で帰ります。 本当に、ご恩は一生忘れません」
「いえ、恩だなどと……。 ますますのご活躍をお祈りしております」
「実は、海外公演のお話が来てるんですよ。 まだ本決まりじゃないんですけど、イギリスのどこかで秋にって」
「余計なことしゃべるなよ、母さん」
 嬉しさあまって、つい口がすべってしまった克子に、暁斗の鋭い声が飛んだ。
 まき子はすかさず、微笑みながら言った。
「秋ですか。 決まったら、新婚旅行で聞きに伺うかもしれません」
「そうですか、秋にご結婚ですか! おめでとうございます」
 型どおりの挨拶をする克子の肩越しに、まき子と暁斗の視線が合った。 まき子は目をそらさなかった。 暁斗も同様で、わずかに右肩が盛り上がり、挑戦的な表情になった。
 ほんとに結婚できるならしてみろ、と言っているような、不敵な顔だった。




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