表紙
春風とバイオリン

 33


 その晩の八時を少し回った頃、染小路家の門前にタクシーが止まった。 
 降りてきたのは、長めのジャケットを着た暁斗と、小柄な中年女性だった。
「こっち」
 暁斗がそう言って、すっと門に向かおうとしたが、女性はためらって。足を止めた。
「すごいお屋敷ね。 赤坂の迎賓館みたい」
「圧倒されてどうすんだよ」
 暁斗はわずかに笑った。
「ここでずっと練習させてもらってたんだから」
「母さんこんな格好でよかったかしら。 貸衣装でも、もっと豪華なの着てきたほうが……」
「きちんとしてるよ。 この家の人たちは身なりで笑うようなことないから」
「ほんと?」
 不安げな母を引っ張るようにして、暁斗は門柱に近づき、ベルを押した。
 すぐインターフォンが答えた。
「いらっしゃいませ。 どちら様でしょうか?」
 家政婦の三島らしい声だった。 暁斗はすぐに答えた。
「田中暁斗です。 お礼とご報告に伺いました」
「あら、はい!」
 声が元気付いて、すぐに扉が自動で開いた。

 知らせを受けたまき子は、食後のコーヒーをテーブルに置いて、身軽に廊下へ出た。 ちゃんと挨拶に来てくれたのが嬉しかった。
「優勝して、いろいろ忙しいでしょうに」
 明日でもよかったのに、と思いながら、いそいそと玄関に出ると、大きな青年と小さなおばさんが、かしこまって立っていた。

 一目見て、暁斗の母だとわかった。 背丈や体型はまったく似ていないのだが、しっかりした口元と物怖じしない眼は、家族の血を色濃く感じさせた。
 白いブラウスにロングスカートのまき子が現れたとたん、暁斗の母親はぐっと腰を曲げ、深々と丁重に頭を下げた。
「暁斗の母です。 田中克子〔たなか かつこ〕と申します。 この度は大変お世話になりまして、深くお礼を申し上げます」




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