表紙
春風とバイオリン

 32


 竹屋という気さくな定食屋でカツ丼を食べて、ホールに戻ってみると、表に結果が張り出されていた。
 通行人が何人か、立ち止まって眺めていた。 だが、まき子はリムジンから降りる勇気が出ず、粕谷にそっと頼んだ。
「悪いけれど、見てきてくれる?」
 粕谷は酸っぱい笑いを浮かべて、運転席から振り向いた。
「怖いんですか?」
 まき子は粕谷には素直だった。
「……そうなの」
「わかりました。 確かめてきましょう」
 皮手袋を嵌め直すと、粕谷は颯爽とドアを開け、澄ました顔でホールに向かった。

 その間、ほんの三、四分だったが、まき子には一時間にも感じられた。 心臓の縮むような一時間に……
 粕谷は大きな体を告知の前に寄せて、手帳を取り出し、メモを取った。 それから、別に急がず、悠々と帰ってきて席に乗り込んだ。
 震える手を重ねて、まき子は小声で尋ねた。
「どうだった?」
 手帳を広げると.、粕谷は事務的に読み上げた。
「順位は、一位が田中暁斗、二位は岡野君江、三位が栗田洋吾、以上です」

 少しの間、まき子は胸が強ばったままだった。
 だが、間もなく緊張が解け、暖かみが全身に広がった。
 粕谷は手帳に目を近づけて、続きを追っていた。
「田中さんは、他にもランベール賞とかいうのを取っています。 審査員特別賞も」
 並み居る賞を独り占めなんだ。 まき子は目頭が熱くなるのを覚えた。
「すごいわねえ」
「半分はバイオリンのおかげですよ」
 粕谷は意地悪そうに言い返した。


 やがて、車は静かに出発した。 座席にゆったりともたれたまき子は、ようやく不安から逃れて、未来のことを考えめぐらす余裕が生まれた。
――これで暁斗さんは将来が開けた。 私もこの一ヶ月楽しかったし、ストラディヴァリにもふさわしい弾き手が見つかった。
 すべてうまく収まったわ。 明日からは日常に戻って、そろそろ結婚準備を始めないと――

 非日常な日々は終わりだと、そのときのまき子は思っていた。 すぐに、甘かったと思い知らされるのだが。




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