表紙
春風とバイオリン

 31


 すべての演奏が終わった後、審査員が一斉に退場していった。 別室で優勝者を選考するためだ。
 そこでまき子は、そっと席を立った。 

 ロビーへの階段を下りていくと、他の客たちがたむろしていて、興奮気味の口調で話を交わしていた。
 やはり、暁斗の評判が凄かった。 あちらこちらで田中暁斗の名前が飛び交っていた。 中には、あんなの情緒的な音を出すのがうまいだけだ、などと憎まれ口を叩く者もいたが、神業的な技術の上にあれだけの曲想を表現できるのは頭ひとつ抜けている、と反論されていた。

 頭ひとつか…… ――普通は『鼻差』ぐらいだろうに、と、まき子は嬉しくなった。 しかし、その足は、ためらうことなく出口のほうへ向かっていた。
 結果発表まで待つ気はなかった。 九分九厘優勝だと思うけれど、あと一厘が怖かった。


 近くに銃砲店がなかったため、粕谷はデパートに入りこんで、書籍売り場でガン・マガジンに見とれていた。
 そろそろ昼食時だと思って駐車場に行ってみると、車の中にまき子がいる。 驚いて、のけぞりそうになった。
「まき子さま!」
「はい?」
「もうお戻りてしたか!」
「ええ」
 まき子は。物思わしげに答えた。
「それで、田中さんは?」
「見事な演奏でした」
 着物の裾を整えてきちんとすわり直し、まき子はちょっと寂しげに笑った。
「結果は後で見に来ましょう」
 粕谷は目をむいた。
「ですが……!」
「たまには一緒に外食しない? この身なりだと、たとえお知り合いにばったり会っても、たぶん私だと気付かれないでしょうから、おいしい定食屋さんか屋台のラーメン屋さんに行ってみたいわ」
「……まき子さま!」
 粕谷は目を白黒させた。




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