表紙
春風とバイオリン

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 次に登場したのは、堂々とした体格の男子だった。 確かこのコンクールは年齢制限が二十五歳までだったが、それを越えているんじゃないかと思うほど貫禄たっぷりで、音に深みがあった。
 まき子は、ますますドキドキしてきた。
――この人、本当はプロじゃないの? 演奏に余裕があるし、舞台慣れしているし――
 客の拍手も、前の女子より一段と多かった。 まき子はバッグからハンカチを出して、額を拭った。
――さあ、出番よ。 落ち着いて実力を出しきってね、田中暁斗さん――

 暁斗は、さりげなく舞台に現れた。 観客の反応もさほどではない。 応援団は来ていないようだった。
 座席に埋まるようにして、まき子は目だけで彼を追った。 自分では気付かなかったが、頬が燃えるように赤くなっていた。
 すっとバイオリンを構えると、暁斗は弾き始めた。
 とたんにホールは、魔法にかかったように静まり返った。

 暁斗の弓の下で、ストラディヴァリの弦は文字通り、『唄った』。 胡桃色の小さな楽器から、ワインよりも芳醇な音がうねりながら流れ、広がり、またたく間に会場をとりこにしてしまった。
 技巧がどうの、パッセージの展開がこうの、という段階を超えて、みんな聞きほれた。 ぴりぴりしたコンクール会場ではなく、コンサートホールで名曲を鑑賞しているような、清澄な中にも甘やかな空気が流れた。

 曲が終わった後も、会場はしんとしていた。 暁斗はバイオリンを下ろし、照れたように素早く一礼した。
 角のほうで、パチパチと拍手が一つだけ鳴った。 すると、それが合図になったように、次の瞬間、会場中が津波のごとく拍手で包まれた。
 急いで引っ込もうとする暁斗を伴奏者の高山が止めて、もう一度礼をさせた。 それでも拍手は鳴り止まず、立って手を叩く観客があちこちに現れた。
 まき子は、席に沈んだまま、ぼうっと下の舞台を眺めていた。 クラシック音楽には素人だが、屋敷を訪れる名演奏家たちを聞きなれているため、耳は肥えていた。 だからわかった。
 これまでの演奏で、暁斗は群を抜いていた。 おそらくこれからの出場者も、彼の演奏を上回る者は現れないだろう。 よほど好みのかたよった審査員でない限り、暁斗の優勝は決まったと同じだった。

 予選通過者は、あと二人。 どちらの演奏をも、まき子は集中して聴いた。 二人とも実に上手だった。 だが、暁斗の演奏のように、魂を揺すぶられる体験はできなかった。




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