表紙
春風とバイオリン

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 何を言い出すのかという表情で、粕谷は穴があくほどまき子を見つめた。
「なんですと?」
「わからないようにTホールへ行きたいのよ。 バイオリン・コンクールの本選が見たいの。 うちのストラディヴァリ・セレーノの晴れ舞台なんですもの」
「あのバイオリン小僧のでしょう?」
 唸ってはみたものの、粕谷は上目遣いになって顎に指を当て、どんな服があるか思い出そうとした。
「都南中学の制服がございます。 セーラー服で」
「十年若ければ似合うでしょうけれどね」
 あっさり却下されて、粕谷はポリポリ頬を掻いた。
「それでは、お着物で眼鏡をかけられたらいかがでしょう?」
 なるほど。 それならガラッと変わって見分けにくいかもしれない。 着物なら旧男爵令嬢だった母の形見がたくさん残っているし。
「いい考えだわ。 それにします」
 Vサインを出しそうな勢いで、粕谷はニコニコした。


 Tホールは赤坂にあった。 本選だけは入場料が要るので券を買って入ると、だいたい七分ぐらい客席が埋まっていた。
 見つからないように、まき子は二階席へ上がった。 アップにした髪が気になる。 似合うかどうか不安だったが、誰もジロジロ見ないので、目立たないんだろうと思うことにした。

 十時を少し回って、いよいよ本選が開始された。 プログラムによれば、暁斗は三番目だ。 遅すぎないし、他の奏者との比較もできるし、いい順番じゃないかなと、まき子は考えた。
 課題曲は、ヴィエニアフスキーのコンチェルト第一と、バッハのシャコンヌだった。 最初に進み出てきたブルーの服の女子が、あまりに素早く細かい旋律を刻むので、まき子は口をあけて感心してしまった。
――すごいすごい! まだ十六か七ぐらいなのに、どうしてあんなに指が動くの? それに音程も恐ろしいほど正確だし――
 ぎょっとするほどの技巧に、まき子は少し不安になってきた。




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