表紙
春風とバイオリン

 28


 その場に粕谷がいなくてよかった。 いや、そういう機会をわざと狙ったのかもしれない。
 暁斗は膝を曲げて身長を合わせ、素早くまき子にキスした。 まともに、唇の上に。

 一瞬のことだった。 まさに一秒の何分の一か。 だが、大急ぎで顔を離して、逃げるように去って行く暁斗を見送るまき子の瞳には、初めて星が宿った。

 ふわふわとした足取りで玄関に戻りながら、まき子の頭は忙しく巡っていた。
――これはお礼? それとも、好意の印?
 どちらにしても、これ以上踏み込む気持ちはないのね。 今日でさよならって言っていたもの――
でも、一瞬だけかすめたキスは、まき子に勇気を与えた。
――やっぱり本選を見に行こう。 変装すればきっとわからないわ。 これがきっと、ファンという種族の気持ちなのね。 今まで特に熱を上げたタレントはいなかったけれど、これからは田中暁斗という未来のソリストを応援しよう。 それが彼の人生での私の役割なんだわ――
 プラトニック・ラブで行こう、と早々と決めるのが、いかにもまき子らしかった。


 だから次の土曜日、ちょっと顔を強ばらせた博史がやってきて、式の日取りを決めようと言い出したとき、まき子は落ち着いていられた。
「いろいろと準備があるだろうから、秋頃はどう?」
 まき子は少し考えた。 秋……その時分なら、会社の販売促進プロジェクトは一段落しているだろう。
「そうね、十月の末か十一月なら」
 博史の目が活気を帯びた。 こうすんなりOKが貰えるとは思っていなかったらしい。
「よし! 大学に休暇届を出して、十日ぐらい新婚旅行に行こう。 二週間でもいいかな?」
「無理なさらないで。 のんびりと楽しく旅行できれば、私は短くてもいいわ」
 主だった国にはほとんど行ったことがあるので、まき子は悠々と答えた。


 その翌日は、いよいよ本選のある日曜日だった。 開始時刻は確か午前十時。 朝の八時少し過ぎに、まき子は粕谷を捕まえて訊いた。
「ね、粕谷。 仮装パーティー用の衣装に、私が外に着て出られるような服はある?」




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