表紙
春風とバイオリン

 26


 三人は久しぶりに小鳥の間に入った。 ここに収められていたバイオリンを出した、あの日以来だ。 一つだけ空になったガラスケースを、暁斗はじっと見つめた。
 その視線に気づいて、まき子は安心させようとした。
「お父様がね、明日からお宅に持ち帰ってくださいって。 田中さんが必要な限り、ずっとお貸ししますって。 バイオリンも上手な人に弾いてもらって嬉しいでしょうから、お礼など考えず、ただのびのびと演奏してくださればよろしいわ」
 暁斗は素早く振り返った。 すると、まき子ではなく、ほとんどまばたきしない粕谷のどんぐり眼とぶつかった。
「楽器を使い終わった後、いつもきれいに手垢を拭いてあるし、弦もゆるめてある。 これなら預けても大事にしてくれるだろうと、旦那様がおっしゃいました」
 手に下げた高価なバイオリンを、暁斗はしばらく無言で見つめていた。
 それからすっと顔を上げて、ぶつけるように言った。
「そんなに信用していいの?」
 まき子が返事する前に、粕谷が答えてしまった。
「叩き売ったりしたら、わたしが地の果てまで追いかけていって、クサイ飯を食ってもらいますからね」
「粕谷」
 まき子が小声でたしなめると、ようやく暁斗は笑顔を見せた。
「助かる、ほんとに」
 ぽつりとそう言ってから、暁斗はバイオリンを顎に挟んだ。 角度を見ながら粕谷がビデオカメラの位置を調整し、ファインダーを覗いた。
「顔が影になりますな。 まき子様、お手数ですが、あの電気スタンドをこっちへ向けていただけますか?」
「はい。 これでいかが?」
「結構です。 いい感じです」
 粕谷の嫌悪するすりきれジーンズ姿ではあったが、バイオリンを構えて弓を当て、ややうつむいて濃く長い睫毛を見せている暁斗の姿は、まことに絵になった。
 額の縦皺を深くして、粕谷はぶっきらぼうに言った。
「撮影開始! なんか好きな曲を弾いてください」
 すぐに甘いメロディーが部屋に広がった。 『恋の喜び』だ。 初めて会った日に誘われたのを思い出して、まき子の頬に笑窪が浮かんだ。
――本当に弾いてくれたわ。 酔っていたのに記憶力がいいのね――

 短い曲は、あっけないほどすぐに終わった。 粕谷はそこでビデオを止めようとしたが、暁斗が手で制し、声に出して呼んだ。
「まき子さん、こっちへ来て」
 驚いたが、一応横へ並ぶと、暁斗はバイオリンを下ろしてまき子の前に出した。 そして、カメラに向かって言った。
「染小路まき子さんです。 この人がこんな立派な楽器を俺に貸してくれました。 ありがとうございます」
 言い終わると、彼は卒業式の小学生のように、まき子に向かって深々と一礼した。

 驚くと共に気恥ずかしくなって、まき子は小声で言い返した。
「そんなに気を遣わなくても……コンクールで努力と才能が報いられますように」

「もういいですか?」
 粕谷の無粋な呼びかけが割り込んできて、まき子は我に返った。 暁斗がさっぱりした表情で答えた。
「いいですよ、ありがとう」
 そこで粕谷は撮影を終わらせ、部屋の奥にあるデッキにカセットを入れて、うまく撮影できたかどうかモニターしてみた。
 三十インチ大画面に映し出された暁斗は、見栄えのする容姿だった。 これならプロになっても人気が出るでしょう、と、まき子は嬉しくなった。
「粕谷、よく撮れているわ。 ダビングして差し上げてね」
「わかりました」
 無表情で承知すると、粕谷は手際よくデッキを繋ぎ出した。




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