表紙
春風とバイオリン

 23


 粕谷は、地下室の中に聞こえないよう、低く咳払いした。
「ウフフン、男の嫉妬というのはですな、生易しいものじゃございませんよ。 いわば意地の張り合い、メンチの切り合いですからな」
「メンチ?」
 まき子が首をかしげると、粕谷は慌ててまた咳払いした。
「ウフン、フン。 お気になさらず。
 それでまき子様、何ゆえにここへ来られましたか?」
「ああ、田中さんとお昼をご一緒にと思って」
 たちまち粕谷は顔をしかめた。
「あんなジーパン小僧とですか? 膝が抜けて色が剥げているんですよ。 いかにも下々の者という服装で、見苦しいことこの上なく」
「最近はドレスコードが変わってね、ジヴァンシーのパーティーでは、きちんとしていればジーンズでも入場できることになったんですって」
「はあ、夷荻の洋服屋が」
 粕谷は鼻を鳴らした。 無粋者の粕谷と議論しても始まらないので、まき子はそのまま進み出てドアをノックした。
 かすかに聞こえていた弦の音が、ぴたりと止んだ。
「はい?」
「まき子です。 そろそろ正午ですから、お食事一緒にいかが?」
 すぐにドアが開き、スタジャンを肩に引っ掛けた暁斗が現れた。 そして、無愛想に尋ねた。
「また食わしてくれんの?」
「ええ」
 笑いを噛みころして、まき子は淡々と答えた。 食わしてくれるって、野良犬に餌をやるわけじゃないんだから。

 連れ立って食堂に入っていくと、博史の射るような視線が暁斗に降り注いだ。 暁斗は博史に見向きもせず、上座に坐った和麿に軽く会釈して、まき子がさりげなく教えた座席に腰を下ろした。
 田中家はどちらかというと昼食がメインなので、サーロインステーキやシーザーサラダなどが食卓を豪華に賑わせていた。
 細身でも、暁斗は食べるのが速く、みるみる皿の面積が広くなっていった。 ほとんどしゃべらない彼と違い、博史はワインをあけながら、盛んに英国詩人のうんちくを傾けていた。
「僕は田園派のワーズワースよりコールリッジのほうが好きだな。 老水夫行なんてぞくぞくする不安感と虚無感があって、今に通じるものがありますよ」
 ロマン派の詩人好きなお父様に気に入られようと思って――まき子は、見えすいた博史のゴマすり作戦に、ちょっと違和感を覚えた。




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