表紙
春風とバイオリン

 21


 椅子にゆったりと座っていた和麿が、思わず腰を浮かせかけた。 そのぐらい、まき子の突然の宣言には迫力があったのだ。
 博史も、まき子の剣幕には驚いたらしく、びくっと肩の辺が持ち上がった。
 だが、意外に速く、彼は立ち直った。 笑顔をつくろい、軽く笑い飛ばした。
「まあまあ、そんなに目を吊り上げないでくれよ。 君が無能だなんで思ってませんよ。 バカな女は僕の一番苦手とするところでね、そんなものを妻にする気はさらさらないんだから。
 僕の言わんとするのは、君の能力が会社でちゃんと認められてるかということなんだ。 才能と地位が見合ってない。 そこを強調したいんだよ」
「やって無駄という仕事はありません。 悪事なら別だけれど」
 まき子は、なんとか気を静めて、穏やかに言い返した。
「不意に辞めれば、たとえわずかでも会社に迷惑がかかります。 いま大岩商事は業務の拡張中でとても忙しいの。 ですから、今年中は辞職するつもりはありません」
「責任感が強いのはわかるけど」
 まだ言いたそうな博史から父へ顔を向け直して、まき子は挑戦的に尋ねた。
「田中さんがさっそく練習に見えているんですけど、お昼をご一緒していいかしら?」
「構わないよ」
 和麿は穏やかに答えた。 博史の目に角が立ったが、まき子は知らん顔で廊下に出てしまった。

 キッチンに行って、料理番の杉野にニ人分増やしてくれるよう頼んでいると、博史が追って入ってきた。
「まき子さん、まだご機嫌斜め?」
「いいえ、そんなことは」
 社交的笑顔になって、まき子は答えた。 本気で婚約破棄までする気はない。 他に好きな人がいるわけでもないし……
 そこで、気持ちがちょっと引っかかった。 空気の動かないキッチンにいるのに、春風がふとかすめて過ぎたような、甘い余韻が胸を走った。





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