表紙
春風とバイオリン

 20


 気がつくと、横に粕谷が立っていた。 夕立雲のような顔をして、廊下の彼方を睨んでいる。 どうも博史に腹を立てているようなので、まき子は驚いた。
「どうしたの? そんな、鬼を射殺すような目つきをして」
 低く咳払いすると、粕谷は離れていく博史に聞こえないよう、小声で言った。
「お嬢様のご夫君となられる方は、何よりも紳士であるべきです。 紳士には、余裕と包容力が大事です。 初対面の、しかも楽士ごときにあの嫉妬ぶり、見苦しいことで」
軽く近眼ぎみのまき子は、目を細めて、つんつん遠ざかる博史の後ろ姿を観察した。
「やはりあれは、焼き餅だと思う?」
「確実に」
 まき子はちょっと面白くなった。
「じゃ、そう思わせておきましょうか。 これまでは、私が脇見などするはずがないと安心しきっていらしたようだから」
「そうですね」
 珍しくも、粕谷はまき子のいたずら心に賛成した。
「おとなしく言うことを聞いているだけだと、軽く見られますからね」

 粕谷は、相変わらず暁斗を信用していなかった。 本当に練習しているかどうか、これから地下室に行って確かめてくると言うので、ドア越しに聞くだけにしなさい、邪魔はしないで、と念を押して、まき子は父の書斎へ急いだ。


 書斎の重い樫の扉を開けると、とたんに上ずった博史の声が流れ出してきた。
「本人の意志に任せるのもいいですが、時と場合によりけりです。 OLなんて腰かけ仕事じゃありませんか。 将来性のない雑用係です。 二年か三年で卒業すべきでしたよ!」
「まき子はもう大人だ。 それに、会社でそれなりに役に立っているから、引き止められるんだろう」
「違いますよ」
 博史は吐き捨てるように言った。
「染小路家というバックがあればこそです。 さもなければ、とっくにクビ……」
 背後の気配に気付いて振り向いたとたん、まき子の表情が、見てとれるほどはっきりと固くなったのに気付いて、博史は口を閉じた。
 だが、もう遅かった。 まき子は完全に怒った。 めったに感情を波立たせない性格だけに、本気で怒ると相当な効果があった。
 かわいい顎をできるだけ引きしめて、まき子は凛とした口調で宣言した。
「私が無能だとおっしゃるのね。 それなら、あなたの妻としても失格です。
 婚約は、今日いまここで、取りやめにいたしましょう!」





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