表紙
春風とバイオリン

 19


 思いがけない男の声、しかも妙になれなれしくタメで話しかける声を聞いて、博史の肩がグッと強ばった。
 まき子は体を斜めにして博史の背中から顔を出し、明るく応じた。
「どうぞ! 用意はしてあるから」
「わるい」
 それだけぶつ切りのように言うと、暁斗はさっさと歩いていってしまった。 首だけ回して振り返った博史を見もしないし、挨拶もまったくないままだった。
 曲げた首を元に戻すと、博史はちょっと不機嫌そうに呟いた。
「どうも、ぐらい言ったらどうだ」
「田中さんのこと? 彼は芸術家で、少し風変わりなのよ」
「田中か。 名前はえらく平凡なんだな」
 そこで博史は、まき子の顔を探るように見た。
「友達? 名前をあなたの口から聞いたことがないが」
「昨日会ったばかりだから」
 博史は絶句した。 妙な間が空いた。
「それであの言葉遣いなのか! まき子さん、今の学生にはガツンと言わなければわからないことがある。 礼儀作法は特にそうだ。
 あの生意気な芸術家気取りの子にいいなさい。 年長者には敬語を使うようにと」

 年長者――何となく気の滅入る言葉だった。 ずっと年上だからといって、博史に命令口調で言われるのも楽しくなかった。
 それで、できるだけ穏やかに説明した。
「知り合って一日でも、友情を感じたら友達。 敬語では親しみが持てないわ」
 博史の顔が怖くなった。
「僕の言うことが聞けないんだね。 君は変わったな。 お父上にお願いして、一日も早く仕事を辞めさせていただこう」
 当人のまき子の気持ちも訊かずに、博史は靴をパッパと脱いで、廊下を歩いていってしまった。
 あっけに取られて見送っているまき子の横に、すっと粕谷が来て報告した。
「田中さんが来て、今バイオリンの練習を始めたところです」
 それから、舌なめずりしそうな様子で付け加えた。
「佐藤の息子の一朗が、地下室の前で見張っております。 万が一、田中さんが楽器持ち逃げなどの不届きな真似をされましたら、ただちに取り押さえる所存です」





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