表紙
春風とバイオリン

 17


 翌日の朝食後、電話がかかってきた。
 家政婦の三島に呼ばれて、まき子は階下に降りて、クラシックな銀と黒の受話器を取った。
「もしもし、蛯原〔えびはら〕さん?」
 電話線の彼方から、くっきりした男らしい声が伝わってきた。
「おはよう、まき子さん。 これからお宅に伺おうと思うんだが、構わないかな?」
「どうぞ。 いつでもいらしていいのよ。 許婚〔いいなずけ〕なのですから」
「いや、こちらの都合で押しかけても、肝心のあなたがいないのでは意味がない」
 蛯原博史〔えびはら ひろし〕は、暗にまき子に、そろそろ仕事を辞めないかと仄めかしているのだった。
 そんな彼の意図に気付かないふりをして、まき子は受話器を持ち替えた。
「今日はずっとおります。 お待ちしているわ」
「それじゃ、後でまた」
 カチャッと電話が切れた。

 思いに沈みながら、まき子はゆっくりと階段を上がった。
 蛯原博史、三十四歳。 蛯原元男爵の末裔で、祖先は豊後藩の城代家老。 そして本人は白鳳時代が専門の歴史学者で、大学の助教授でもあった。
 頭にリボンを結んでいた子供のころ、まき子は博史を、お兄様、と呼んでいた。 遠縁のはとこだったからだが、その当時は恐ろしいほど年上に思えた。
 二十七になった今でも、気分はあまり変わらない。 貫禄と老け具合に圧倒されて、四年前、不意に求婚されたとき、反射的に「はい」と答えてしまった。
 あの瞬間のふがいなさを、まき子は心の奥で悔やんでいた。

 博史が嫌いなわけではない。 ただ、子供時代から知っている人なので、今更付き合う相手として頭を切り替えることができなかったのだ。 博史が男性として十分魅力的なこと、若くハンサムな助教授として、大学でマークされていることも、よく知っていた。
 ――家柄が釣りあうからいい結婚相手だなんて、何の疑問も持たずに決めていいのだろうか? しかも、結婚は四年も伸び伸びになっているし――
 何を隠そう、まき子は実は、せっかちだった。





表紙 目次文頭前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送