表紙
春風とバイオリン

 12


 それは、単なる音というよりも、魂の震えだった。 弓の微妙なタッチで生まれ、共鳴体で増幅された響きは、静かな満ち潮のように、聞く者の心にひたひたとせりあがってきた。

 和音のところで、まき子は眼を閉じた。 楽器の音が熱い息吹きとなって迫ってくる。 すばらしくいい気持ちだった。 さっき踊っていたときと同じ、空にふわりと浮いたようなこの幸福感……
 ぱっと眼が開いた。 勝手に舞い上がってどうするの、という冷ややかな声が頭の奥で聞こえた。 この若者がどんなに素敵だったとしても、自分のものになるわけじゃない。 望んではいけないし、たとえ望まれても駄目なのだ。 まき子には、すでに決まった人がいた。
 恋に似た気持ちが生まれたのは、禁じられているからだ。 まき子はそう自分に言いきかせた。 禁断の木の実は魅力的だ。 この田中暁斗のように。 皮肉な目つき、ちょっと生意気な口のきき方、そんな表の姿を乗り越えて、まき子は暁斗の音楽にあふれ出た内面を受け止めた。
 それは、春風のように柔らかく、ナイーブに心をかすめ過ぎていった。 あまりの情感に、まき子は身をよじりたくなった。 表向きには、黙って静かに立っていただけだったが。

 不意に、楽音が断ち切られたように消えた。 荘重な響きに酔っていたまき子は、驚いて目を上げた。
 暁斗が、バイオリンを引き剥がすようにテーブルへと置くのが見えた。
「どうしたの?」
 芸術家は感受性が強い。 何か気に入らなかったのかと思い、まき子は心配になった。
 右手に弓を下げたまま、暁斗はゆっくりと顔を向けた。 その眼には、今にもこぼれ落ちそうに涙がたたえられていた。
「これを……濡らしちゃ大変だと思って」
 それから彼は、よろめく足取りでまき子に近づき、崩れるように抱きついてしまった。

 男の人が泣くのを、まき子は初めて見た。 暁斗は並みより背が高いので、小柄なまき子よりずっと上に頭がある。 それを無理して身を曲げて肩に顔を埋めたため、ほとんど直角に折れる形になった。
 最初は戸惑いがあった。 だが、だんだん姉か母親のような優しい気持ちが湧いてきた。 まき子はぎこちなく彼を抱き返して、背中をさすった。 よしよし、もう泣かないで、という風に。
 彼の頭が耳元で動いた。 六十度ほど回って、頬に熱っぽい唇が押しあてられた。




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