表紙
春風とバイオリン

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 暁斗がまき子の家をどんな風に想像していたかは知らない。
 しかし、白い柵を長々と廻らした正門の前にいったん車が止まり、自動車電話で粕谷が二言三言話したとたん、壮麗な門がしずしずと両側に開いていったときには、目を丸くしていた。
 リムジンはカーブを切って中に入り、ドアは再び音も無く閉じた。

 植え込みの中を三分ほど進んで、ようやく車は前庭に入り、イオニア式の柱で飾られた正面玄関の前に横付けした。
 染小路家の屋敷は、明治中期に八ヶ月かけて建造された、いわゆる洋館建てだった。 外見はヴィクトリア朝のイギリス建築で、中に入ると和洋折衷になっている、意外に住み易い館だ。 そういう建物の中でも、染小路邸は特に豪華でスケールが大きく、文化財の候補に入っているほどだった。
 染谷が運転席を降りて回ってくるのを待たずに、まき子は身軽に車から出て、暁斗を呼んだ。
「こっちよ。 小鳥の間に置いてあるの」
 暁斗はふかふかした座席からゆっくり身を起こし、気の進まない様子で長い足を車外へ出した。
「車と同じだ。 でかい家」
「東京大空襲で、運良く焼け残ったのだけれど、古い建物だから毎年のように修理しているの」
 話しながら、二人は広い玄関ホールに入り、革のスリッパに履き替えて上がった。
 左側に、その『小鳥の間』はあった。 遊戯室と音楽室を兼ねている部屋で、奥の壁に大谷画伯の描いた小鳥の絵があるため、そう呼ばれている。 両脇の壁をずっしりとした輸入家具が覆い、ガラスの中に様々な楽器が収められていた。
 二十畳ほどの突き当たりに、ひときわ立派なショーケースがあった。 その鍵を開けて、まき子は胡桃色に光るバイオリンをそっと取り出し、暁斗に渡した。
 緊張に唇を噛みしめて、暁斗は本体と弓を受け取り、つくづく眺めた。
「調子笛は?」
「いらない。 絶対音感持ってるから」
 少しためらった後、彼は思い切って楽器を顎で挟み、すっと弓を走らせて音合わせをした。
 それから、弾き出した。 ヘンデルのラルゴを。
 まき子は窓辺に寄りかかって、弦の奏でる音が部屋を満たすのをゆっくりと味わった。 暁斗の出す響きは、初め少し重く感じられた。 だが間もなく、雲が切れて光がさっと地面を照らすように、眩い輝きを放ち始めた。




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