表紙
春風とバイオリン

 10


 結局、ものは試しということで、ロールスロイスは暁斗を乗せて、高輪にある戦前からの高級住宅地に連れていくことになった。 粕谷は二つあるバックミラーの一つを暁斗に固定し、少し離れて座るまき子になれなれしくしないよう、始終ちらちらと見上げていた。

「俺ってさ、本物のお嬢様に会うの初めて」
 横の座席にだらしなく寄りかかって、暁斗は気だるそうに言った。
「何を話していいのかわかんないよ」
「お好きなことをどうぞ。 お話を聞くのは好きだから」
「下々の事情は珍しくて興味ありってか?」
 まき子は鋭い眼で、ぐたっとしている青年を見返した。
「貧すれど鈍せず、という人なら尊敬するわ。 でも、ひがむ人は見下げるかもしれなくってよ」
「おー怖」
 まだふざけ口調は残っていたが、暁斗は姿勢を立て直して、一応きちんと座った。
「わるいな。 ちょっと意識過剰かもしれない。 こんな胴長のロールスじゃビビるぜ」
 根は正直な男の子だ。 まき子は肩の力を抜いた。

 その後、暁斗はぽつぽつとこれまでの人生を口にした。 父は地方オーケストラの指揮者だったが、十年前に他界したこと。 母が保険の外交員をやって、彼にバイオリンを続けさせてくれたことを。
「コンサートマスターか、できればソリストになりたいんだけど、それにはやはりコンクールで優勝するのが第一条件で」
「まず国内、それから国外の一流コンクールに出場して?」
「そう。 パリかウィーンで超一流のマエストロに教えてもらいたいし。 技術も奥行きもまだまだだから。
 それでも、たまに、ごくたまにだけど、弾いているときに体が共鳴するんだ。 上にぐーっと引き上げられるような感じで、指が弦をひとりでに走り回る。 弓のボーイングもぴたっと決まって、雲に乗ってるような、なんともいえないわくわく感で、弾き終わった後ぼんやりするんだ。
 ああいう高まりを、どんどん増やしていきたい。 道がどんなに険しくても、自分なりの最高峰を極めたいんだ。 そして、酔いたい。 陶酔したい……
 おっと、引かないで。 ペー中みたいなこと言ってるって思わないでくれよ」
「ペー中?」
 中国語だろうか、と一瞬思ったまき子に、暁斗はニヤニヤした。
「そうだよなー。 わかるわけないよな、こんな言葉。 麻薬中毒のこと」
 ほう。 頭の中の俗語辞書に、まき子はその言葉を素早く書き入れた。
 




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