表紙
春風とバイオリン

 9


 まき子がそっと視線で尋ねると、粕谷は小刻みに頭を振った。
「いやいや、駄目ですよ」
「なぜ? どうせ宝の持ち腐れなのだし」
「まき子さま、この若造の言うことが本当だと、どうしてわかります? お嬢様はまだまだ世間知らずですから……」
「二人で内緒話?」
 よろけたふりをして、暁斗が間に割り込んできた。 粕谷は顔をしかめて押しのけたが、まき子のほうは、真面目な表情で暁斗に尋ねた。
「楽器との相性は、弾いてみるとすぐわかる?」
「まあ、だいたいは。 たまには弾きこなすのに時間がかかる楽器もある。 暴れ馬みたいにね」
「では、試しに弾いてみないこと? うちのストラディヴァリを」


 答えは、しばらく来なかった。
 薄暗い階段上が、まるで真空地帯になったように、三人はピタッと動きを止めて、数秒が経過した。

 そして、暁斗がやおら息を吸い込み、フーッと吐いた。 酒臭かったので、禁酒主義者の粕谷がジロッと睨みをくれた。
 そんな護衛に目もくれず、暁斗はまき子に、濁った声で尋ねた。
「悪い冗談?」
「ちがいます」
 あくまでもまき子はまき子らしく、真面目そのもので答えた。
「父がドイツの友人から譲りうけたバイオリンで、素性は確かよ。 使わないと音が悪くなるから、たまに音楽学校の先生方に弾いていただいているの」
「なんで君のお父さんが、そんなもの持ってる?」
 酔っ払いは、軽く逆切れしてきた。
「バイオリン自分で使わないくせに、金にもの言わせて買ってきちゃった?」
「なんと失礼な!」
 粕谷が丸太のような腕を突き出すのを辛うじて止めて、まき子は辛抱強く説明した。
「庭にホールがあって、園遊会のときなどにコンサートをするの。 そのときお呼びした演奏家の方達に、よい楽器を選んでいただけるよう、たとえばピアノはスタインメッツ、スタンウェイ、ヤマハというふうに、できるだけ様々なよいものを購入したそうよ」
「ふえー」
 暁斗は水から上がった犬のように、激しく頭を振った。
「いったいどこの国の話なんだー? ヨーロッパの王侯貴族みたいだな」




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