表紙
春風とバイオリン

 8


 粕谷の肩が、しゅうっと縮んだ。 顔に悔しげな表情をにじませて、彼は呟いた。
「お嬢様の腕になれなれしく手をかけるなど、許されません」
「なに時代がかったこと言っちゃってるの」
 田中暁斗が、フフンと鼻であしらった。
「こんなのどうってことないよ。 俺たち上で踊ってたんたぜ、ずーっと」
 たちまち粕谷は、顔に朱を注いだ。
「お嬢様! なんという情けないことを! わたくしとの約束を、簡単に反古になさいましたな!」
「すまない、粕谷」
 まき子は潔くあやまった。 ディスコに連れこまれたときから、ずっと悪いと思っていたのだ。
「でも大禍はなかった。 ここで別れるから心配ないわ」
「どうかなー」
 暁斗は首をかしげてニヤニヤ笑った。 酔うと癖が悪いらしい。 まき子を誘って粕谷をやきもきさせることに喜びを感じはじめたようだった。
「行こうよ、ね? なんなら俺のバイオリンを聞かせてあげるよ。 『愛の夢』なんかどう? コンテッサ・コンクール銀賞の腕前だよ〜」
 不意に声が濁った。
「金賞のはずだったんだ。 あのグァルネリさえあれば」


 ちょっと困っていたまき子の表情が、ピンと引き締まった。 グァルネリとはバイオリンの名器で、中世にイタリアのクレモナで作られたものだ。 いくつか残存しているが、どれも高い。 保存のいいものは、それこそ億という値段がついているのだ。
「グァルネリ? その楽器、どうなったの?」
 小声で尋ねると、暁斗は薄ぼんやりした眼差しを彼女に向けた。
「取られた。 貸してくれるはずだった実業家のオヤジがさ、金に目くらんで、俺のライバルに渡しちゃった」
 手すりを強く握って、暁斗はヒクッとしゃっくりした。
「バイオリンなんてね、所詮は腕半分、楽器が半分なんだ。 いっくら技があっても、楽器が安物だと、それなりの音しか出せない。 しかも、楽器ごとに相性があるし。
 俺にはあのパンチネッラがぴったりだったんだ。 それをあいつ……」
 グァルネリ・パンチネッラという名前のバイオリンだったのだろう。 まき子はゆっくりと頭を動かして、粕谷と眼を見交わした。




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